本

『思考の整理学』

ホンとの本

『思考の整理学』
外山滋比古
ちくま文庫
\546
1986.4.

 今から思えば、古い本である。私は昔読んだことがあったかもしれない。
 昨今、東大や京大など高等教育機関の学生がたくさん読んでいるというふれこみで、この文庫本の帯にもそのことが大々的に記されている。そういうことが宣伝になるものだというのも複雑な気持ちであるが、確かにそんなふうに書かれると読んでみたくもなる。あるいは逆に、敬遠されるのであろうか。
 元々1983年に出版されていた本の内容を殆どそのまま踏襲したような文庫である。著者は英文学の専門ではあるが、日本語についての思索がいくつかの人気の本として出版されている。エッセイの技術についても名人級である。
 そのエッセイは、どのようにして書かれるに至るのか。どんな題材を使い、どんな発想をどこから得るのか。どのように綴っていけばよいのか。その純粋に日本語的な、レトリック的なテクニックというものは、学べばなんとかなるのかもしれないし、あるいは天賦のものがあるのかもしれないが、アイディアの貧相な人は、結局厭きられてしまう。小手先の言葉の面白さ程度では、読者の血肉になるようなことがないのである。読者もそれが分かるから、だんだん厭きてくる。しかし、内容のある筆者は違う。次は何を教えてくれるのか、どんな視点を提供してくれるのか、楽しみである。
 そのような思考を整理していくための、個人的な格闘と得られた知恵を、この本は整然と読者の目の前につきつけてくる。時折漏れてくるが、まさに「手の内を見せる」ような本である。
 しかし、学生の心を掴むというのは、どこか計算ずくのようでもある。というのは、いきなり「グライダー」の話から始まる。もちろんそれは比喩である。近年学生が、良い子ちゃんで教えられたことはよく覚えるなどの能力は大したものだが、自分の中から創造していくものが乏しくなっている、という指摘なのである。つまり、自らエンジンをつけて発進する飛行機ではなく、誰かに動かされ、風次第でしか飛べないグライダーが、今の学生の姿なのだ、というわけである。もちろんこれはかつて綴られた文章なのであるから、いわば私たちが学生の頃に、著者がどう私たちを見ていたか、ということがここに描かれていることになる。そして私は、それに思い当たる一人である。
 著者の発想ノウハウのすべてに、私は賛同するわけではないが、そのようなアイディアが浮かぶのを求めて四苦八苦した経験が多々ある者として、同じような感覚を有していることは間違いないと言える。だから、この本の帯に「もっと若い時に読んでいれば…」という感想が尤もらしく書かれているが、若い時でなかったからこそ、書いてあることがよく実感できる、という辺りが正解に近いのではないかと私は思っている。経験を重ねることなく、ただ才能ある若い学生が読んでも、せいぜい勘の良い学生にとってであっても抽象的にしか受けとめられないのではないか、ということである。それほどに、七転八倒してアイディアを捻る苦しみと圧迫感を持続した経験は、この筆者のものにきっと近いのであろうし、経験は最良の参考書であるという事態を説明することになるのであろうとさえ思う。
 知的生産の技術という梅棹氏の頃からすれば、ずいぶん垢抜けた知的生産の意識であるようにこの本からは窺える。果たして今ならばどうだろうか。IT機器を多用すればなんだか優れた情報が得られるかのようにばかり書かれている最近のものは、私の目からは貧しいものでしかないようにしか見えないが、著者もそういう意見なのではないだろうか。
 私たちは、自分がオリジナリティあるものを考えついた、新しいことはいいことだ、と心躍ることに騙されてはいないだろうか。何ものかに唆されて、これは正義だ、正統だ、と主張するばかりでなく、本気で思い込んでいるのではないだろうか。
 これを読めば、思考が整理されるというものでもない。これを読めば新たなアイディアが浮かんでくるというようなものでもない。そんなものしか求めないような学生であれば、この本を読む意味はないだろうし、そもそも「思考」そのものが決定的に欠けているのではないかとさえ思われる。もはや、グライダーどころではない。それを操縦する気もなく、ただただ風に流される気球でさえなくて、もしかすると凧程度に過ぎないような学生であるとするならば、この本は売れていたとしても、何の実ももたらすことはないだろう。
 電子辞書でチャチャッと意味を調べることを当たり前だと思い、ネットの百科事典を検索してそれが真実だとして下手をするとまるごと引用するような学生であるならば、この本は読まれても、何の力も及ぼしていないという悲しい事態がそこにあることになる。どちらかというと、古くさいタイプの哲人が、いくらかでもいてほしいものだ。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります