本

『「しきり」の文化論』

ホンとの本

『「しきり」の文化論』
柏木博
講談社現代新書1719
\740+
2004.5.

 日本の家屋は貧相な仕切りしかもたなかったはずだが、だとすれば当然いまとはプライバシーの感覚も大いに異なるものだったはずだ。コロナ禍で距離が離れる接し方をするようになって、人と人との距離というものをどう感じるものなのだろうかというあたりの問題意識と関連して、日本の伝統的な家屋のつくりが気になった。そういうことだけを、思想的な背景を踏まえて説明してあるような本はないだろうか。
 まさかね、と思っていたが、検索するとすぐに引っかかってきた。これだ。
 予想以上に、楽しく良い本だった。そして私の知りたかったことについても、十分適切に教えてもらった。
 テーマはもちろん「しきり」。これは空間を仕切るものであると共に、人間関係をも区切ることになる。つまりこれは公私の分離という観点に関わることになる。しかし、こうした見解は、よくよく歴史的な経緯を調べてみないと、確かなことは言えない。印象や、単なる事柄の分析だけでは何も分からないのだ。
 その点、これが1910年辺りから始まったということを示し、またそこに国の政策がどう関係していたかというところまで踏み込むことで、この本の価値が出てくる。生活様式の変化は、思想をも変えていくものなのだ。人の生きる感覚が変わっていくと、考え方も変わるということだ。
 もちろんそれは西欧の考え方が影響を与えている。西欧もまた、近代的な概念の出現により、社会に対する意識が変化してきている。著者は、日本においてはそのような社会意識が欠落した中で間取りだけを導入したのではないかと考えている。
 私が知りたかったのは、屏風や衝立で仕切るのが日本古来の家屋や宮殿での文化であったが、そのとき音は聞こえるし、何もかもが筒抜けであるはずだ。それでも成り立っていた生活あるいは政治というのはどういうものなのだろうか、ということである。そしてそれは、人間が壁を他人との間に立てることとどう関わるのかというところにも及ぶ。その壁は、粗末な移動式の壁であるとすると、そこにある仕切りは、もはや見えない壁であるとしか言いようがなくなる。その時には、人間関係に歪みはなかった。それなりの暗黙の了解のようなもので、関係が築かれていったはずである。だが、形だけ輸入した現代の日本において、個々人で区切った個室における生活のあり方は、果たして何をもたらすことになるのだろうか。確かに気になる問題なのである。
 著者は、「自己と非自己」「自己と他者」という仕切りについて、抽象的な議論に走らず、様々な現象を呼び寄せて、読者を人間の生活の中からその本質を見抜く眼差しの世界へと導いていく。最初のほうで、免疫という概念が取り上げられて、自己と非自己というあり方の問題を考えさせるところなど、心憎い。私はその多田富雄さんの本もいくらか読んでいたので、免疫システムがいったい自己と非自己という関わりによって成立するものであることはよく分かった。新型コロナウイルスとそれに対するワクチンは、まさにこの免疫の問題なのであったし、新型コロナウイルスで人がやられてしまうのも、ウイルスのせいというよりも、ウイルスに過剰に反応する自身のシステムが自身を殺していくというあり方を解くのがここでの目的ではないけれども、このシステムを犯罪者の管理へと結びつけ、個人を管理するものがあたりまえになっていく時代の変化に注目させようとする辺りなど、さすがである。
 とにかく、様々な事象例を繰り出して、そのように感じる私たちの考え方や性格について考えさせようとするなど、心憎い配慮を私は見出していた。西洋のいろいろな思想家の言葉やその考え方を随所で持ち出して、七色に輝く宝石を見せつけられるような思いがしてくるのである。
 仕切る。それは思考においては、分類することである。この路線でまとめ上げると、西洋の近代主義思想とその世界が現れ始める。時間空間についての捉え方や、日本におけるうちそとの考え方、オフィスとプライベートとの違いが現れ始めた社会が指摘される。
 私にとり大きな関心を寄せたのが、聖と俗との区別である。聖なるという言葉自体が、区切ったという意味合いを含むことは聖書世界での理解だが、様々な宗教やその思想において、その区切りが伴うことは興味深い。これを日本の家屋へと持ち込むと、柱という存在に注目せざるをえなくなる。柱が守るその家が、そとと区別された聖なる空間であるという認識があったかもしれない。だから日本においては、壁ではなく、柱こそ重要だったのだ。だが宗教的でなくても、区切りとしては「敷居」の問題がどうしても出てくる。「敷居が高い」という言葉の意味が誤って流布されているようだが、その敷居にまつわる幽霊の話や、それが結界として作用していたことなども面白いし、玄関というものの禅的な位置づけなど、一つひとつ、思い当たることが多くて驚きと納得の読書となっていく。
 家屋だけではない。言葉も私たちの思考を区切っていく。区切ることなしには言葉はないし、認識すらないだろう。この区切りについては、それが「批判」という西洋語の根本に連なることを私はよく気にしている。言葉は分節され言葉として機能していくし、思考そのものも仕切ることによってこそ成り立つ。区切ってこその言葉であり、認識である。私たちが「分かる」と思うのも、何かしら切ったが故なのである。
 話は個人主義から全体主義などへと向かい、日本も近代へと入り込む。ヨーロッパですら1920年代にようやく空間の内外のしきりを消す空間デザインが見直されるようになったというが、日本は懸命に区切るように家を設計し、新しいリビングの形が築かれ始めた。西洋近代思想における公私の問題や速度と時間の概念による制約などが明らかにされると共に、日本の第二次大戦後の社会の建てられ方へと進むと、もう私たちの見渡す社会の姿が明らかになってくる。
 ともあれ、私たちは仕切りなしには生活すらできない。凡そ思考することすらできないだろう。家屋やその構造の変化は、何らかの形で新しい時代を築くための作用をもたらしているであろう。当事者としての私たちには自覚が難しいかもしれないが、もしもそれを少しでも嗅ぎ分けるかのように知ることとなったら、新しいビジネスや社会への先陣を切って進む逸材となるかもしれない。それらが私たちの人間関係をも変化させたことに気づいていよう。かつて貧相な仕切りしかなかった家屋の中で、それでもというか、それだからと言うか、ひとへの配慮が行き渡っていたのは、遠い昔となってしまったのだろうか。強固に閉鎖されたいまの家屋が、そうした思いやりあるふれあいの社会を、見失わせて肺内だろうか。仕切りは、どのようであればよいのだろうか。仕切りなしには思考もできないのだから、仕切りを設けざるをえないという人間のあり方を指摘しながら、本書は実に多様な顔を見せながら、読者を楽しませていく。
 もしかすると「差別」の問題も、この考え方の流れの先に、何か解決のヒントを見出すようなことに、なりはしないだろうか、とふと思った。差別は、人為的に仕切りを入れることだからである。仕切ることは必然的に伴うものであるとすると、差別を必然性の中に置くわけにはゆかない私たちとしては、それがどうすればまずい線引きにならないで済むか、これから考えていく必要があるのではないか、とも思わされた次第である。




Takapan
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