本

『鹿と日本人』

ホンとの本

『鹿と日本人』
田中淳夫
築地書館
\1800+
2018.7.

 副題のように「野生との共生 1000年の知恵」と書かれている。奈良の森林ジャーナリストの手によるレポートである。従って、おもに奈良の鹿について書かれている。いや、関心は専ら奈良の鹿なのである。それは歴史を刻む。また、神の使いとして見なされていたその鹿の扱い方から、日本人の宗教観と動物を現実にどう見、そして経済生活をどう考えるかというあり方が見えてくる。それも、長期にわたる捉え方である。
 まずは、いま私たちが奈良公園で出会う鹿の姿を描く。もちろん訪ねたことのある人にはおなじみである。だが、立ち止まって考えてみると、いろいろな疑問が起こってくる。これらの鹿による被害はないのだろうか。鹿を駆除することは許されないのだろうか。鹿の角切りはどうして行うのか。すべての牡鹿の角を切っているのか。いや、森からへたをすると畑の草に手を出すのではないかという鹿というのは、無害な動物なのかどうかという視点も芽生えるし、これらの鹿は誰かが飼っている扱いなのか、野生なのか、しかし鹿せんべいをもらいに来る鹿、餌を与えると呼ぶと集まってくるあの鹿たちが、野生と言えるのかどうか。そしてこれらの鹿は本当に神の使いなのか。
 こうした鹿を管理する人々がいる。面倒を見、また保護のために尽力している団体があるのだという。著者はそことの関わりを通じて、鹿と人間との関係を様々に調べていく。
 多分に必要なのは、歴史的な過程である。すると、奈良時代からこのようであったというのではないことが分かる。紀元千百年を越えてから、春日大社に現れた多くの鹿を喜んだことで、神鹿というような発想が出てきたのではないかと推測される。これらが進展して、この鹿に神的なものを当てはめて考えるようになり、鹿を殺した者は殺人と同じものと見られ死罪とされたという。その肉を狙う者もいただろうが、農作物を荒らされて困る者も、殺せば死罪だったのだ。
 こうした鹿と人との間の問題は後世までずっと続く。
 著者は、鹿が増えていることを指摘する。もちろん、正確に数え上げることは不可能であるが、それなりに調査する。そしてその原因を探る。単なる推測ではない。他の動物との関係や森全体の環境も考慮に入れていく。鹿の肉をさばこうにも、実際に経営上の問題がどのように起こるかまで紹介する。そう、私も店頭で見たことがある。決して安くはないが、それを供出する業者も、儲かるものでは全然ないのだという。
 奈良だけではない他地域の問題も呼び出して、鹿と人との共存の話が展開する。ただ「かわいい」では済まされない。しかし何かの動物がいなくなると、自然のバランスも壊れる。人は、もっと動物たちのことを知らなければならない、と著者は主張する。まずは知ること。近づくこと。鹿という動物が、日本人にとり歴史的にもなじみの深い動物であり、また接することも可能な、比較的穏やかな動物であるだけに、この鹿を契機に、人間だけが暮らしているのではないこの自然世界について、考え直していく必要があるのではないか、と環境全体を視野に告げるのだ。奈良公園は、そういう交わりの場としてひとつの有力なモデルとなりうる。
 動物に触れることが、動物園の檻の内と外だけのものであるのは、確かに間違っているような気がしてきた。




Takapan
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