本

『しばいぬ』

ホンとの本

『しばいぬ』
岩合光昭写真
平凡社
\1575
2011.3.

 いやあ、まいった。表紙のタイトルの下に「世界一かわいいニッポンの犬」とある。
 可愛い犬? そんなの世界には限りなくあるではないか、と犬に詳しい方ならばいくらでも品種名が上がってくることだろう。愛くるしい顔、美しい毛並み、きりりと逞しい姿勢、様々な特徴の犬が世界にいくらでもいる。そもそもそれらどう見ても違う動物のように見える無数の種類のものを、私たちはどうして共通に「犬」と呼ぶことができるのだろう。これは私が常々思う不思議である。四つ足ならいくらでも動物にいる。ワンと鳴かないものもいる。形態も様々、性質も様々である。
 まあ、それはいい。とにかく、何にまいったかというと、表と裏と両方の表紙にある、しばいぬの表情である。この、話しかけてきそうな表情は何だというのだ。
 私は、家に犬を飼っていたことはある。犬の性質について知らないわけではない。それも、こうした柴犬あるいは雑種であった。だが、それも比較的幼い頃であったし、その後は猫と暮らしたことはあったが、犬とは生活上疎遠になっていた。人のよいパートナーであるとは認めるが、私が個人敵な趣向からして、好きだ、とは言い難い。言葉の上からも、「犬」は悪いイメージが多い。尻尾を振ってついてくる奴であったり、「幕府の犬め」などという台詞がくると、もうだめだ。「犬畜生」とも言うし、聖書でも「死んだ犬のような」と軽蔑の第一位として扱われている。
 だが、そんなことを誰が決めた、と言いたくなるのがこの本だ。写真集だ。解説めいたものは、ほんの一言という具合にある程度で、それも犬の知識を増やすというほどのものでもない。なんだか友だちの紹介をしたり近況を報告したりするかのような具合なのだ。
 そう。しばいぬは、私たちの友だちである。さらに言う。私たちの心に、どうにもこうにも馴染んでしまっている存在である。
 よほどの美人やグラマラスなスタイルの女性に目移りすることは、男性としてあるかもしれない。だが、自分のことを何でも分かってくれ、心通い合うそばにいる妻にまさる女性はこの世にいない。しばいぬは、そんな存在であると言ってよいだろう。だからまた、その表情の奥にある心が、分かってしまうような気がしてならない。懐かしいとも言えるし、自分の分身のようだとも言えるし、とにかく言葉にはできないにしても、もうこれは「そのままでいい」と叫んでしまいそうなくらい、自分の心にぴたっとくっついてしまう。
 論より証拠、本を開いてご覧ください。「世界一かわいい」というのが本当だとお分かりだと思う。それは、日本人である私が「世界一かわいい」と思うはずの犬、という意味であるかもしれない。
 そう思わせるのも、写真家の技術ではあるだろう。パンダの写真でも有名な、動物写真家である。一瞬の表情や、それを心情豊かに伝えるだけの背景の切り取り方やその他カメラワークのテクニックをすべてそなえている。いや、これはもう「心」であろう。動物を愛してやまないハート。動物と共にうなずくことのできるハート。それがあれば、テクニック云々は二の次である。写真家が、モデルを自分に恋させることができたらすべての写真が生き生きする、と考えるのと同じだ。言葉がけを巧みに使い、モデルの心を奪う。そのとき、モデルのすべてがカメラの中に飛び込んでくる。ただ、動物にはその言葉がどう通じるか、未知の世界である。通じていないかもしれない。しかし、動物はそれだけに言葉に頼らない理解をするはずだ。つまり動物的直感により、自分の敵か味方かを判別するというものだ。モデルの犬たちは、岩合さんを、皆慕ったのだと分かる。写真が、それを物語っている。
 なお、最後に、愛犬家の組織の理事であるという卯木照邦さんが寄稿して、柴犬とはどんな犬であるかの解説またはエッセイのような文章を載せている。犬のことを本当に愛している人の文章だということがひしひしと伝わってくる。近年外国で暮らすしばいぬもいるのだという。この文章を読むだけでも、しばいぬがそのまま日本人でもあるように思えてならなくなる。
 いや、もう理屈はいらない。ただこの写真の犬たちと目を合わせてみればいい。本を開いたその人が、この本の魅力を勝手に語り始めることだろう。
 負けました。




Takapan
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