本

『主につく者はだれか』/

ホンとの本

『主につく者はだれか』/
C.H.スポルジョン
松代幸太郎訳
いのちのことば社
\1400+
1986.6.

 まず、この価格が今通用するものではないということをお断り戴きたい。どうやら2007年に新たな版が出ているようで、それだと価格は1700円+税ということに2014年現在なっているようだ。ただ、それも入手可能であるのかどうか、定かではない。
 この「再販」という肩書きのついたものも古いが、初版は1961年に遡る。その50年前の時代から、スポルジョンの説教は、さらに多く世に出まわっている、というわけではない。説教のプリンスと呼ばれた逸材も、その説教が広く現在日本で読まれていることではないようだ。もし邦訳がたくさん出れば、それなりに需要があろうかと思うのだが、もはや時代が違うという面もあるのだろうか。
 これは説教集である。いくつかの説教が選ばれて訳出された。そのうちのひとつが、このタイトルのものである。収録されている説教題は、「神の力強い御手の下に」「すべて、疲れた人は」「過越の子羊の血の力」「永遠の住まいを見つめて」「彼は大いなる者となる」そして「主につく者はだれか」である。
 いずれも、掲げられた聖句は単発的な一節で、そこから話を膨らませている。聖書の講解をしようという気はさらさらなく、その一言の中に含まれる慰めを精一杯拡張して、聞く者を神の下に導こうとしている。あるいは、神への信仰を強くしようとしている。テーマ的説教であり、聖書が何を言っているかを読み解こうというようには見えない。
 当時のイギリスでは、文字の読めない人も少なからずいて、労働条件も厳しかったことから、ゆっくり聖書を研究するといった生活が、聴衆の多くには許されないものだった。ただ精一杯疲れた体を引きずって、晴れ着の着れる教会に集うのであって、そこでは、疲れを吹き飛ばすような説教、これからの一週間の励みになるような説教が求められた。
 このように説明しつつも、スポルジョンの説教が決してレベルの低いものでないことは認めなければならない。随所で、瞬間的に、聖書の他の個所の出来事が重ねられていく様は圧巻である。なるほどそこにも同じことが書かれてあったのか、あそこにあった言葉はそういう意味だったのか、と気づかせられることも多い。時に原語の響きを説明もするし、聖書時代の背景にも手際よく触れ、殆ど落ち度のない構成になっている。
 しかも、スポルジョンの特徴として、例話や喩えが実に効果的である。生活に密着した、誰もが知る事柄を持ち出して、たとえばどういう情景がこの聖書の述べている事態と重なりうるかを目の前に描く。そうなると、まるでイエスが福音書の中で人々に語っているのはこういうことだったのではないか、という気持ちになってくる。
 福音とは、そのようなものであってよいはずだ。
 その言葉が、力となって、その人の中で生き、はたらく。それがひとつの「いのち」ということであることは間違いない。それは慰めであり、力づけである。だが、甘えてはならない。神は厳しく、信仰ときよめとを求める。ありのままでよい、などという言葉を武器に、私たちは、自堕落なままに、神はなんでも優しく言うことを聞いてくれる、と勘違いする場合がある。甘やかされて育てられた世代は、あらゆる場面で自分を肯定して扱われてきた。自分には悪いところがないという励ましを受けて育てられる傾向は、その後も続き、今の子どもが王様のようになっている場合を見かけると、このままではいけないのではないか、と思わされる。聖書の福音も同様で、とにかく自分は何をしてもどうあっても許されるのだという安心感の中で、ずるずると堕ちていくということに、肝腎の本人だけが気づいていない、というケースが多々あるように見受けられるのだ。スポルジョンは、罪の問題も蔑ろにしまい。救いは、この自分の罪の自覚を前提としている事柄であるのだ。また、福音は確かにその図式に則るものでなければはたらかないはずだ。
 その意味で、スポルジョンの説教はバランスがいい。
 それに、よく読めば、聖書の福音的な釈義がどうあるべきか、たいへん勉強にもなるのだ。スポルジョン自身、まともに神学校に進んだエリートではない。若くしてその語りで有名になったものの、独学のようにして本を読みあさって教養を得ている。組織的な神学から語ろうとする学者とは訳が違う。民衆の中から語ろうとする。そして、自分が不快に感じたことも、自分と関わった人の成功も失敗も、包み隠さず説教で明らかにする。
 十字架とは何か。それを信じるとはどういうことか。信仰生活では何に気をつけている必要があるか。クリスチャンの要するに中核にあるのは、基本的にそういうところであろう。スポルジョンは、この基礎を逃しはしない。
 頭でっかちになった人が、ふと、素朴な福音の神髄で心の洗濯をしたい場合、このような説教集は実に効果的である。読まれる価値は必ずあるし、何かに疲れたら、ふと繙けばよいのではないかと思う。教会には、こうした霊的な本を、常備しておく必要があるし、それを借りて読む必要がきっとあるだろうと思うのであった。




Takapan
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