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『「宗教とオカルト」の時代を生きる智恵』

ホンとの本

『「宗教とオカルト」の時代を生きる智恵』
谷沢永一・渡部昇一
PHP研究所
\1,400
2003.7

 ややアウトローの著者も、自分の仕事には誇りをもっているようだ。だが、えてして他人から評価されないでいる場合、ひとりよがりということもある。強い口調で、宗教やオカルトについて論じているけれども、かなり自分の立場から見た景色を強く言い放ったもの、という印しようが拭えない。
 これは、自分の立場からものを言ってはならない、などの意味で受け取らないで戴きたい。自分の偏狭な視野について、それこそが普遍的であり、他は排斥されるべきだ、と考えてはならない、という意味である。皮肉なことに、この対談の中で、鈴木大拙は自分以外の同業者をいっさい認めない点で気に入らない、というふうなことを谷沢が述べている。他人の悪口は、自分に返ってくるというのは、どうやら真実である。
 渡部にしても、カトリックに立場から、カトリックの宣伝をしているだけのようで、その見方からすれば、プロテスタントはしょせんカトリックに「対抗して」できた徒花に過ぎない、という結論にしかならず、本の中の最初から最後まで、その調子で同じことばかり繰り返していた。プロテスタントは悪であり、カトリックこそ正義である、という点に関しては、問答無用といった雰囲気しか伝わってこない。
 思想的な内容について、一人の手による著作、あるいは二人の対談、三人の鼎談などは、気をつけたほうがいい。それはダイアローグではない。建設的な対話がなされるわけでなく、一人では自信のない言い方を二人で同調して声高に語れば怖くない、といった心理のために、調子に乗った発言が展開していくということが往々にしてある。
 その点、いくら輝かしい業績があろうと、権威があろうと、関係ない。だが、読者はその肩書きやありあまる自信に、すっかり騙される。なるほどそうか、知らなかった、などと。
 評論家としても定評のある渡部であるだけに、この極めて個人的な体験を交えた個人的な感想が、あたかも他の意見を許さないかのような言い方で強気にこぼれてくるのが、残念でならない。渡部はキリスト教に詳しいが、谷沢は自分でもあとがきに記しているように、そうではない。それにしても、宗教を批判することを言葉でなしていこうとする者にしては、かなりお粗末なキリスト教理解のようである。
 私たちは、しばしば、ものの「好き嫌い」で書かれた本を、まるで「真偽」が語られているかのように錯覚する。権威のイドラのせいなのかもしれないが、これは気をつけなければならない「罠」である。
 逆に、そうしたものだと誘惑されないだけの免疫をもっている人にとっては、このような本はきわめてスリリングな娯楽読み物となる。一方、これを迂闊に信じてしまいそうな面々にとっては、取り扱い注意の本となるのである。




Takapan
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