『昭和こども食べもの図鑑』
奥成達・文
ながたはるみ・絵
ポプラ社
\1470
2004.4
父親が、ふと子どもの頃のことを思い出し、あの味を自分の子どもにも教えてやりたい、と考えたとする。だが、どうやって作ろう。コンビニにあるわけでもないし、たとえあったところで、自分が覚えているあの味とは違う。家庭の味と言ってもよいが、それはただ郷愁を誘うが如くにすべてが手作りすぎるものとは限らない。ハンバーグやイタリアンスパゲティはたまらない御馳走だったし、その割にはおやつにスパゲティを食べていた、という記憶もあったりする。
肉じゃが、オムライス、ハヤシライスやきんぴらゴボウ、あんみつに太巻き寿司、おはぎやいなり寿司といった、誰でも知っている料理、だが自分の手で案外作らなくなってしまった料理のレシピが、この本にはちりばめられている。
だからと言って、料理の本と思われると、どうも違うと説明せざるをえない。レシピの為の本ではないような気がする。もちろん、そこから実際に料理を作ってみる読者が現れることが、目的には違いないのだ。それでも、ハウツーではないように思えてならない、と言っているのだ。
その食べ物にまつわる思い出や当時のエピソード、あるいは由来などについて、十分に語り尽くされた後に、1頁のレシピが添えられるという構成だからである。v
還暦を超えて間もない著者は、詩人であり、エッセイストである。思い出に浸るが如き本をいくつも出している。そのことを確認したのは、私が「まえがき」を読み終わった後であった。「まえがき」を読んだとき、私は思った。これはどんな人だろう。
実は、私はこの「まえがき」を読んで、涙したのである。
どう表現してよいか分からない。説明して伝わるものであるかどうか、分からない。私はこの著者よりはずいぶん年下である。そして、同じ昭和生まれでも、著者とは一線を画する時代であるに違いない。それでも、心にツンと響くものがあった。何だろう。言葉で説明できない。でも、たしかに何かがある。――そうだ、これは優れた「詩」を読んだときの感覚に近い。著者は詩人だったのだ。もはや読者は言葉によっては感動を説明できない状態にさせる、そのための言葉をぶつける、そんな人の業とは思えないことができるのが、詩人というものである。
「本書は、おふくろの味を思い出し、その懐かしさを、ああだったこうだったとみんなでワイワイ言い合いながら楽しく味わう直そうよ、という想いでつくられている。」
それと同時に、父と子とのコミュニケーションの回復ももう一つのテーマであると綴られている。
「ごく平凡なおふくろのつくる家庭の味の伝承は、父と母から、そしてぼくたちからこどもたちへ、日本の歴史を伝えていくことなのである。」
この本には、クリスチャンの目から見ると、日本的宗教が時折関わり、自分はやっていけないなと感じるところがある。だが、そういうものを超えて、著者のこの姿勢には拍手を贈る。日本の伝統文化を伝えるというのは、こういうことなのだとしみじみ思う。「国を愛するのは当たり前だろうが!」と叫びながら、人が君が代を歌う声の大きさを計るなどという発想をすることとは、180度異なることなのである。日本の伝統を愛することは大切、などとしたり顔で言いながら、個人は国家の中に吸収され画一化されなければならないという思想へ扇動しようと策を練っている政府や一部新聞などが、道具として用いようとしている「歴史」や「伝統」より、この本にある簡単なレシピのほうが、どれほど国を愛し、日本の伝統を愛し後世へ伝えようとしているかは、本をお読みになれば誰にとっても明らかなのである。
繰り返すが、国を愛するというのはどういうことなのか、この本が真実の辺りを教えてくれることを、期待してよいと思う。そこまで大げさに考えたくないという人も、この本で、心の奥の大切な部分を見つけることができる、そんな効果を期待することができる。