『戦争は、』
ジョゼ・ジョルジェ・レトリア文
アンドレ・レトリア絵
木下眞穂訳
岩波書店
\2000+
2024.4.
戦争というものが、現実味の中に漂う世相を受けてのことではあるだろう。岩波書店が、戦争の悲惨さや愚かさをアピールする道を、様々に探している。ポルトガルの絵本作家による物語、そしてその息子による絵によって、2018年にこの絵本が発行された。ということは、日本でこの絵本が発売された2024年において誰もが知る、ウクライナでの戦争や、イスラエルのガザ地区への攻撃といったこととは、直接関係がない中で生まれた絵本だ、ということになる。ただ、ウクライナの紛争はそれ以前からすでに始まっていると言えるし、イスラエルとパレスチナの争うも、ずっと以前から続いている。その意味では、日本人がまだ遠い対岸の出来事として、一部の人ばかりが受け止めていたような争いについて、この絵本は敏感に感知し、警告していた、ということが言えるのかもしれない。
もちろん、第二次世界大戦における悲惨な戦争の傷跡を、ここに繁栄させている、と言うべきなのかもしれない。しかし、特定の戦争について思い描いている、と考えてはならないであろう。ここにあるのは、もっと普遍的な「戦争」についてのアフォリズムである。作者自身が、独裁政権に対する抵抗運動を実践していた、ということを後から聞いたが、何かしらそういう体験が背景にあることは、確かに分かりやすい。そういう生々しい空気を吸った人間でなければ、これほどの重い、力と意味とをもつ言葉は出てこないのではないかと思われるからだ。
画面は、暗い。実に暗い。絵本の編集部の文章には、先ず「まるで知らぬうちに進行してしまった病のように、密かに忍び寄り、瞬く間にはびこってしまうもの、それが戦争」と紹介されている。例によって本文を長々と引用することは避けるために、これはぜひお一人ひとり手にとって、言葉を噛みしめ、頁をめくっていって戴きたいと願う。
絵本の中の言葉は、すべての頁にあるわけではない。また、1頁おきといったように、規則的に言葉があるわけでもない。読者は、次の頁に言葉があるかどうか、予想をつけることもできないままに、ただ頁をめくり、言葉があればそれを聴く、という形をとらざるをえない。
その言葉は、短い一文である。主語は「戦争は、」である。これが絵本全体のタイトルにもなっている。原語だと、ポルトガルの古い言葉で、「戦争」そのものなのであろうし、おそらくは元の文もそれで始まった文が並んでいるのだろう、と思われる。だが、日本語題では「戦争」とはしなかった。「戦争は、」である。最初に現れるものだけを明かすと、「戦争は、日常をずたずたにする。」となっている。この主語に続く文が盛んに姿を換え、しかし形式としては殆ど変えることがないままに、「戦争は、」につづく形容の様々なバリエーションを、読者に次々と見せてゆく。読者は、その都度、その真意を深く捉え、考えなければならなくなる。
一つひとつの叙述に、つながりが特にあるわけではないと思う。しかし何のまとまりもない、と言い切るつもりはない。一つひとつが、誰かの心にぐさりと刺さり、また、そのために命を落とした誰かのことを思い起こすものとなるであろう。あるいは、これから起こる戦争について言っていることにもなるだろうし、そのための警告として留まることができたら、それはそれでよいことなのかもしれない。
戦争は、ひとつの原理で説明して、それでうまく言えた、などということのないものであろう。一つひとつの言明を刻み込むことで、初めて人々の中に、それへの憎しみが育まれるものなのかもしれない。戦争を憎まないことは、すでに別のものを憎むことに慣れきっている、ということに違いないからである。「戦争は、憎しみ、野心、恨みを糧とする。」と、絵本を教える。だが、怖いのはそういうところにあるものが最大なのではない。私は心して受け止めたいと思う頁がある。最後にそこだけをお知らせすることにしよう。
「戦争は、何も聞かない、何も見ない、何も感じない。」

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド