本

『戦火の馬』

ホンとの本

『戦火の馬』
マイケル・モーパーゴ
佐藤見果夢訳
評論社
\1365
2012.1.

 スピルバーグ監督による映画が2011年末に公開された。映画の評価は非常に高く、アカデミー賞の受賞こそ逃したが、ノミネートされ、多くの映画作品賞の上位にランクインしている。
 しかしその原作そのものは、そのおよそ30年前に発表された。児童小説である。そしてこの版も、振り仮名が適度に振られている。小学生には少しきつい振り仮名の振り方だが、読めないことはない。内容も、小学生には分かりにくいところがあるかもしれないが、しかし届かないほどのものではない。私の見立てでは、中学生ならほぼ誰でも大丈夫だと思う。
 邦訳のタイトルがいい。原題は"WAR HORSE"。そこに「火」を入れた。砲撃の中を走り抜ける軍馬ジョーイの姿が鮮やかに浮かんでくる。
 イギリスでー平穏な日々を過ごしていた馬、ジョーイ。この馬の視点と語りで全編が尽くされる。この観点がまたいい。読者は、終始、馬になる。
 ジョーイは、生まれて間もなく母馬から引き離される。この、人間が当然のことのようにやっていることが、馬の身になってみればどういうことであるのか、まずそこから、痛みを覚えざるをえない。
 買われた男はいいかげんで意地悪そうに見えたが、その家の息子アルバートとジョーイが友情で結ばれる。すると、その父親もそう悪人ではないことが次第に分かってくる。
 しかし、時代は彼らの運命を変える。第一次世界大戦が始まった。馬は軍馬として駆り出されることになる。上からのお達しで、もはや拒否もできない。否応なく引き出されることになる。
 ジョーイは戦場であるフランスに送られる。そこで出会う少女もまた、物語の重要人物の一人だ。ジョーイは、戦場で最前線に出る男たちの、いわば不条理な世界をも経験しながら、優れた軍馬としての使命を果たす。
 物語である。これ以上の言及は控える。
 作家モーパーゴは、当時の軍馬なるものがどういう扱いを受けたか、それを歴史の片隅に隠されたままにしておきたくなかったのであろう。こうした物語が作られなかったら、あるいはまた、舞台や映画になるのでなかったら、誰も動物たちへのむちゃくちゃな扱いを知ることすらなかったと思われる。戦争だから、人間優先である。さらに、国家が優待される。動物など、末端の存在である。法的には現代日本でも、動物を殺すとき、器物損壊扱いでしかない。だが、馬の眼差しを通して、人間がいわば客観視されるとき、私たち人間は、自分がどういうことをしているのか、を見透かされる。初めて自覚する。物語は、それを促す。
 なにも、お涙頂戴ではない。きれい事過ぎて涙も出さなかった、というクールな映画ファンもいる。そうした人はそうした程度で結構だ。ただその人は、自分がそのような戦争をひきおこしている張本人だ、という自覚ができない人であるだけだ。善意の人ばかりでつまらない、というそういう人は、自分が善意の人であるつもりであるだけだ。そうではない。自分自身が、馬をこのように追いやっている一人であるということに、この馬に見つめられて気づくのでなければ、人の心は依然として改善の余地なくまた戦争に進み、あるいは戦争のために他者をけしかけ犠牲にすることから、脱出できないままなのだ。
 ジョーイは、特別に選ばれた馬である。あまりにもうまくいった存在である。このことは、その背後に、うまくいっていないケースがあるのであり、そうさせたのがほかならぬ自分を含む人間であるという自覚が求められる。映画であれ小説であれ、そういう効果をもたらすものであるからこそ、高い評価をつける人がいるのである。
 児童小説だからこそ、ひとつの救いで物語は終わる。そうした希望を失ってはならないことを、子どもたちに示すからだ。そしてたいていの子どもたちは、現実はそのようにいかないということも悟る。その中から、それでも善意を自らつくるような方向に歩み始めてくれる。映画もいいが、ぜひ物語も味わってみて戴きたい。自分の心の映像が、そこに現れてくることだろう。




Takapan
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