『日本は変わるか? 戦後日本の終末論的考察』
大木英夫・富岡幸一郎
教文館
\1800+
1996.1.
これもまた、ある説教で触れられた図書である。探すと、入手しやすい価格で売られていたので、早速取り寄せた。
発行は1996年である。戦後50年を経たところであった。そして、1995年の阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件で、世間が大きく揺らぐ時であった。
本編は、多くが大木英夫氏の文章と、二つの富岡幸一郎氏の文章、それから後半、まさに半分の量は、二人の対談によって成り立っている。大木氏は東京神学大学の学長まで勤め上げた人で、特に終末論に大きな関心を寄せていた。若い頃にはラインホルド・ニーバーに師事していたともいうから、神学的な学びとしても一流の環境で研究をしている。実際神学博士号を取得している。その終末論への考察について、富岡氏が抱いた感想が、教文館の関係者を通じて二人の出会いとなり、ここにその交わりが、一冊の本として結実した。富岡氏は、信仰をお持ちではあるのだが、文学研究者と言ったほうがよいであろうか。加藤常昭牧師に洗礼を受けていることから、私の耳にこの人が伝わったのと、この人の『使徒的人間』というバルト論を読んだことがあるという点で、私にはひとつの既定路線であった。
繰り返すが、これは戦後50年という時を、特別な機会として見据えた考察である。8月15日という日付を素朴に信じて論ずるところは、戦後しばらくしての保守勢力の思惑に素直に応じただけの無反省な前提であるため、その後の修正が必要であろうと思われるが、ともかく戦後の歴史を振り返り、そして1995年という、特異な出来事の集まった年の出来事を、そしてそこへと集約してゆくような戦後思想家の考えを批判するような勢いの中で、本書は厚みを増してゆく。
三島由紀夫が取り上げられる。小林秀雄が論じられる。福田恆存を掲げるのは富岡幸一郎氏である。そして、大木英夫氏からは、梅原猛への強烈な批判が繰り広げられる。その後、再び富岡氏が、大江健三郎作品を論じた後、二人がこれらすべてを弁えつつ、対談という形で、いっそう深い、あるいは広い着想へと展開させてゆくことになるのである。
私は個人的に、梅原猛についての批判は、読みやすかった。その思想には、特に初期において、かなり親しみ読んでいたからである。それは、画期的な哲学のように見えた。確かに本人の口が巧かった。自分の考えが独創的であり、従来の思い込みを打破するものとして、如何に証拠立てられているか、それを高らかに宣言するものであった。そしてそれは、西欧文化中心主義を打破するものとして世に提示された。
私は多分に、この梅原日本学によって、西欧哲学へ宣戦布告をするべきだと立ち上がったのだ。そのために、その西洋の哲学の中に入り込み、その思想の急所をつかみ取ろうとしたのである。梅原日本学によれば、西欧思想は、怒りの動機に支配されている。ヘレニズムの源流であるソクラテスも、ヘブライズムの源流と言ってよいであろうイエスも、どちらも現行法に基づき殺された。どちらもいわば正当的に、この社会から抹殺されたのだ。それに対する怒りが、西欧思想の動機である。
しかるに日本思想はどうか。そこには「怨霊」というキーワードが潜んでいる。従来の古代史の不明点を、怨念に基づく人々の考え方を軸に明らかにしてゆく過程は、推理小説かミステリーのようで、小気味よかった。しかし、それを怒りとして戦う姿勢へは、日本思想は向かわなかった。
その後、いつの間にか梅原猛はずいぶんとおとなしくなり、右翼まがいのブレインの役割を担うようにすらなってゆく。本書の二人は、その点を中心に据え、それが21世紀の日本を任せられるような思想ではないことを批判する。確かにそうだろう。当初から、梅原日本学は異端視されていたのは事実だが、いまどれほどの影響力をもって思想として成立しているのか、怪しいものだ。ただ、本書の二人は、聖書というバックボーンを共有し、それを背景に論ずる術を心得ている。だとすれば、梅原は、あまりに聖書を知らない、ということで一蹴されてしまう。確かにそうかもしれない。が、機会があれば、もっと細かく、あるいは深く、その至らなさを論ずることがあってもよいはずだ。もはやそれを期待することは無理なのだが、いまなお信奉者がいるその思想については、はっきりした結論を下しておく必要があるのではないかと思われる。
必ずしも、終末論的考察としては完結したものにはなっていないだろう。だが、対談やコラボレーションの良さは、独り善がりにならない点である。別の視点から、同じひとつのものを見つめ、共通の批判的眼差しをそこに提示してゆく。文学に、あるいはキリスト教に、熱い思いと知識をもつ二人による本書の提言は、「戦後」が続いている21世紀になっても、決して古びたものにはならないであろう。但し、大江健三郎以降の文学者や思想界というものが、果たしてどうなっているのか、どう機能しているのか、それについては、また改めて同様のメスが入れられなければならないのは確かであろう。

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