本

『自分の死を看取る』

ホンとの本

『自分の死を看取る』
近藤裕
いのちのことば社
\1200+
2011.4.

 サブタイトルに「天国からのメッセージ」と書いてある。これが一般の書ならばそういうことなんだろうなと思うが、キリスト教書である。サイコセラピストであるという。西南学院大学や九州大学で学んだそうで、日本バプテスト連盟の百合丘キリスト教会の牧師をも務めた方である。百冊の著書があるそうで、巻末にリストが挙がっていた。
 死のカウンセリングも多々あったことだろう。信仰においても重要なもの、というより著者にとっては、人間の最終目的、あるいは行きつくところは、さしあたりこれしかないという認識で、人生最大の問題であると位置づけて、しかしそれに対してままならぬ心理になってしまう人間の心を包み込むように、そして希望をもって最後まで生きることかできるように、様々な考え方を提供する本となっている。いや、むしろ自分が到達したこと、自分の願い、そうしたものを大切に扱いながら、自分のために綴った一冊ではなかったのだろうか、という気がしてならない。
 幸福とは何かという眼差しに始まり、老いというものを肯定的に認めていく歩みを教え。アメリカでの生活もあったので、そこでみた不条理というか、ままならぬ有様を現実的に捉え、表向きの華やかな舞台ばかりでない、アメリカの暗部、というよりも人間の本当の姿を突きつけるには十分であった。
 病については、聖書の考え方も示す。しかし聖書を伝えようという姿勢は見せない。著者自身が牧師もしていたのだから、聖書に従って考えるのはもちろんである。しかし全体的に、教義で押してくるようなことはなく、聖書になじまない人にも心の垣根を提げざるをえないような語りかけを心がけているように見受けられた。これもまた、セラピーのひとつの成果なのだろう。そして心を開いたところに、人生への真摯な問いかけを始める。聖書の中にはこんな知恵もありますよ、こんな生き方や死に方が書かれているのです、と紹介するのである。
 イエスの死はあまりに特殊である。しかしこれを抜きにしては、人間の死という問題を語ることはできない。自分の死は観察できないし、一般化することもできない。そして体験したときには自分ではもはやそれを知ることがないというジレンマもあり、最も不条理な出来事である。少なくとも自分にとっては。それがまた他人にとってはひとつの他人の死ということとして捉えられるのであるから、実存の究極の課題であるとも言える。そこには美学というと語弊があるかもしれないが、何かしら考えがあってのものであるべきであろう。
 そこで、著者がその考えとして寄りかかるのか、ロス博士の『死ぬ瞬間』という本である。世界にこれをもたらした衝撃は大きかったが、その後実のところ批判や修正もなされていく。ただ、この著者はすっかりこれに基づいて説明を果たしていく。死への心理的な段階を、かいつまんで述べ、そのとおりに進むかどうかは別として、ありがちな人間の心理として考察の根底に置く。この基本的な捉え方を踏まえておき、自分の体験やあるがん患者のエピソードを伝えると、最後に特別なことが紹介されるのであった。
 本書は、著者の死後、その妻が最終的に編集してつくりあげたものらしい。著者は2010年9月、突然死と読んでよいような姿で亡くなった。夜中に目覚めたあと、崩れ落ちたというのだ。それは本人が理想としていた姿に近かったようだ。意識があったかどうかは別として、妻の腕の中で息を引き取ったということ。その遺作とも言える著作だと言えるだろう。
 巻末には、「お別れのことば」が掲載されている。これは、自分の葬儀のために自分で作成し、録音しておいて、当日これを流す手はずになっていたものであるという。さすがに生前葬まではいかなかったが、コンセプトはそれに近い。本人の口から、参列者に感謝の言葉を伝えたいという気持ちである。そのあたりの説明も本書には詳しく書かれている。とにかく死を迎える準備としては間違いなく用意周到である。心構えなるものもたっぷりとあり、このような気持ちになれたらいいのだが、と読者はきっと誰もが思うだろう。そんな羨ましい本となっている。
 誰もが行きつくところを、逃げずに見つめるということのためには、たいへん読みやすく、深く考えたことがない方であれは、考えが整理されもするのではないかと思う。著者の考えを全部受け容れる必要はないが、仲間として声を聞く価値は確かにあるのだと思う。そうではないだろうか。




Takapan
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