本

『説教と言葉』

ホンとの本

『説教と言葉』
山口隆康・芳賀力編
教文館
\3600+
1999.4.

 説教塾が、主宰の加藤常昭氏の70歳の誕生日を記念して、説教についてのそれぞれの思い、自らに託された役割を示す文章を集めたものである。なかなか重厚なものとなった。読み応えがある。多彩である。副題は「新しい時代の協会と説教」とあり、日本の教会の舵取りもしようというものとなっている。
 加藤常昭氏の紹介がひとしきりあると、その後まずボーレン教授により、未発表の論文を、この場に適切だということで寄稿してもらえたものが載せられている。それから加藤氏自身の「われわれの課題」という説教が掲載されているが、これは宣教の集いの主題講演であるという。
 その後は、言葉に関する説教についての断面から、教会の宣教のあり方、児童礼拝など教会での説教のあり方についての論考が並ぶ。その次には、建築という部門から重厚な考察がなされたり、日本基督教団内部の問題が扱われたりする。最後には、太宰治や内村鑑三などとの関連と、絵本の世界との接点がそれぞれ専門とするところから扱われているが、私は個人的にこの絵本についての、松井直さんの文章にいたく感動した。
 言葉の命を感じとることがなければ、言葉は生きて働かない。
 礼拝は御言葉を読むところではなく、御言葉に聞き入るところだと私はおもっている。しかし次の世代は、より一層聞く力は乏しくなってゆくと推察される……。
 (乳のみ児であったとき)"共に居る"喜びがあり、共に生きる体験があった。これが人生の出発点であり、家族の原点であり、交わりの深い根でもあった。
 絵本の専門家として多くの著作を出し、そのいくつかには私も触れたことがあり、好感を抱いていたが、とくにこの論考の最後に付け加えられた言葉に、私は涙した。というのも、ここまで聞くことが多く強調されていたことについて、私は、手話はどうなるのだろうという不安を隠しきれなかったからである。一度論を閉じた後、括弧付けで次のように付け加えられていた。
 聴覚障害の方々にとっての手話は、ひとつの言語であり、眼で読みとる言葉ではあるが、文字とは違う。手話を語る人の表情や思いがこもっていて、限りなく話し言葉に近いものである。手話は語り聞く言葉ととらえている。
 この配慮と理解。言語をいやしくも扱おうとする人が、さも当然のことのように、手話を言語として捉え、それについて重要な解釈を施している。本書は、まだ20世紀の時代である。その後20年近くを経て私は手にとっているため、この時代においては、手話言語条例が各地にちらほらとでき始め、理解がなされてきたのは確かであるけれども、20年前にそうした理解は皆無に近かった。一部のろう者などが訴えていたものの、誰も感知しなかった問題であった。そのとき、松井氏は、的確に手話を位置付けて、その意義を理解していたのである。
 松井氏についてインターネットで検索をかけてみても、手話と共に挙がってくることはなかった。だが、気づき、考えている人はちゃんと世界にいる。理解はどこかでなされている。そんなことを感じたのである。
 最後を飾る芳賀力氏の文章がまさに力強く締めくくり、本書をどのように位置づけたかったのかを伝えるようで、意義があった。そして、教会は聖書を食べて生きる、と黙示録の表現にまつわる形で宣言し、与えられた時の中で語り、また説教を聴くという教会のあり方を印象づけている。
 たんに一個人の記念にこしらえた、というような書ではない。日本の説教について、今後の説教のために、福音のために、それぞれの人が与えられた才能を活かして、誠実に論じたものばかりである。470ページに及ぶ本書の厚みは、その数字では表せないほどのものを隠しているに違いない。




Takapan
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