本

『説教の神学』

ホンとの本

『説教の神学』
R・リシャー
平野克己・宇野元訳
教文館
\2800+
2004.4.

 キリストのいのちを伝える。このサブタイトルに、私はどうしてもこの本を読まなければならないと感じた。私にとり、これは使命だった。自分がこのようにキリストの言葉を、聖書を知らしめよう、分かち合いたい、と考えているのは、キリストのいのちを伝えるためであるにほかならないからである。
 アメリカの最近の学者であり、説教者である。今回「日本の説教者たちへの手紙」と題したメッセージが冒頭に置かれている翻訳書。アメリカにおけるこの本の訴える内容や動機と、日本のそれとはやはり大きく異なる面があることを指摘考慮しながら、しかしこの同じ時代を生きる者として、神の言葉と真剣に向き合うべき人間のために、本書がいのちとなって関わっていくことを望んでいる。
 聖書はテキストである。しかし、ただの物語ではない。これがどうしたら人々の心に届くのか。届いて、神の霊が生き働いて、いのちとなってゆくのか。教会で語る説教が、とくにアメリカにおいて、魅力のないものになってきてしまった時代の中で、生き生きとしたものになるように、腰を据えて考えていく。
 説教は神学であるか。説教は呼び起こされて、復活するのか。それは福音であるのか。いったいそれは神の言葉であるのか。それは如何にしてか。そして説教は教会にとって何であるのか。また、教会とは何であるのか。
 説教は、それを聴く者が、聖書の物語に参与しなければ意味がない。他人事の物語を聞くのではない。昔話を面白がるものでもない。まして、その話の意義はどうだと評論するための俎上の鯉であるはずもない。あなたはどうか、あなたはこの物語の中のどこにいるのか、そしてどう決意するのか、を問いかけていく。それに応えて、イエスと出会い、その前で自分の心と行いとを告げ、表していく。聴き手は、この体験を説教と共にする。そこにこそ、いのちが注がれる。著者ならずとも、私もそのように思う。
 また、聞くことに焦点を当てることにも、私たちは教えられる。イエスの言葉は、語る言葉だった。やむなく後の時代にそれは書き記すこととなったが、イエスは間違いなく、話した。聞くことによって、心を動かされ、癒され、喜びを与えられた。これを忘れることはできない。となれば、現代の説教においても、聞くという角度を塗り替えるようなことをせず、真っ直ぐに神の言葉を受け取るようにしたい。また、語るほうも、そのような言葉を伝えていくものでありたい。
 いずれにしても、説教は、語る者だけが責任を負うものではないし、語る者次第で決まるわけでもない。語る者と聞く者とがともに築き上げるものであることは確かである。語る者は確かに備える。しかし、それがすべてではない。料理人が料理をつくる。しかし、つくったそれですべてが終わるのではない。それが食事とならねばならない。つくるのは料理であって、食事をつくることはできない。食事は、料理を戴く側が行い、また、共に料理を囲んで話を楽しみ、交わりをするところに成立する出来事である。
 たとえ同じ料理を出したとしても、集まる人により、その場のムードや時期により、様々な食事が生まれる。もちろん、料理が旨いに越したことはない。しかし、料理が旨ければ食事がすばらしいとは限らない。料理に難があっても、すばらしい食事にすることはできる。料理が旨く、華やかな交わりができれば、最高の食事となるだろう。食事とは、「食べる出来事」なのである。
 各教会にて、語られる言葉と受け取る人々とにより、初めて説教が成立する。それがひとを生かすものになるかどうかは、その都度違う出来事である。ただ、出す料理には一定の責任がある。神の物語に人々を招き入れるだけの説教が語れるかどうかは、説教者の腕にかかっているわけだけれども、本書を受けて私たちは、聞く側としての姿勢が問われていることと、説教に対するさらなる要求もしていくようにしたいということも、強く考えさせられた次第である。
 なお本書は最後に4つの説教の実例も交えてあり、著者が何を言いたいのかということは、作品から判断することもできそうだ。全体的にやや硬派な印象を与える内容だが、その分冗長にならず、コンパクトにエッセンスを伝えにかかる。味わい、そして教会を、いやまず自分を、変えていってもらいたいと思わされる。




Takapan
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