本

『説教 いかに備え、どう語るか』

ホンとの本

『説教 いかに備え、どう語るか』
フレッド・B・クラドック
吉村和雄訳
教文館
\4500+
2000.6.

 憧れの本だった。小さなサイズで400頁にも満たないのにこの価格である。しかも新刊としては販売されておらず、古書しかない。その古書の価格が、元の価格を上回っていた。何倍にもなっている時期もあり、とても手が出なかった。買えるかも、と思った時もあったが、他の牧師に買われてしまった。SNSを見てそれを知った。また価格が跳ね上がった。そうして待つこと何年か過ぎた。まだ定価を上回るが、清水の舞台から飛び降りるつもりで手を出した。きれいな本が届いた。
 クラドックの本は、信頼する説教者が絶賛しているのを、かつて見たのだ。他の著作は一部手に入れた。噂に違わず、説教の醍醐味を教えてくれた。だからますます、この本が読みたかったのだ。
 一種の教科書として機能しているらしい。教科書を要請されて執筆したのだという。
 そのエッセンスをここで羅列するつもりはない。説教についての秘密を、無造作に公開したくはない。私の紹介が下手であれば、本の価値を落としてしまうし、お手軽に要点をばらまいても、この場合よいことはひとつもないと考えるからだ。だから、説教というものを大切に考え、説教について学びたいとの志をもつ人は、どうかそれだけの犠牲を支払って、手に入れて丁寧に読んで戴きたい。支払った以上のものが与えられると私は確信する。
 尤も、不思議なことに、本書には「説教とは何か」を定めようとする形跡がない。否、ないのではない。それを論じようとするものではない、ということだ。説教が神学を語ることではなく、神の啓示を、聴く者にとり今ここにある出来事として、そして自分を変えるようなものとしてもたらすことだという考え方を、十分読者には提示してくれている。聴く者は、それにより神を知る。イエスを経験するというのである。
 神は、本来そのような言葉を、ささやきの中で私に及ぶように与えてくれるだろう。だが、与えられたものは、今度は人々に向けて、叫びとして伝えなければならない。なぜなら、それは命に関わるからである。神の声を聴いて、それを真摯に自分の中に迎え入れた者が、今度は誰かに伝える。神はそのようにして、この世で働こうと望んでいる。
 こうした説教についての見解に、私は全面的に賛同する。ああ、だからこの本を読みたかったのだ、としみじみ思う。この方向を見つめている人が書くそのノウハウが、私にとり肯けなくなるはずがないのである。
 いまノウハウと言ったが、このようにしろ、方法はこれだ、と決めつけてかかるような書き方はどこにもされていない。やり方そのものは、語る人によりいろいろあるだろう。そのような意味でのハウツーを示すようなものではない。むしろ、こういうものであってはならない、という警告が案外多い。私が説教ごっこだと見なしている様子が、本書で斬り捨てられているのをまざまざと見る思いがする。かといって自分が優れているのだ、というような言い方をするつもりはさらさらない。ただ、私が求めている説教、私がこういうものが説教だと考えるものが、余計なものを取り払われる形で、本書の中に姿を現しているのを見て、始終肯くという経験をさせてもらえたことを感謝している。
 確かに教科書である。特に、テキストからどうやって説教に組み立てていくかについて、ほんとうに詳しく述べられている。また、平生どのような生活をしていくとよいのか、そんな心構えについてもたっぷりと教えてくれる。漠然としたところから、説教という形になる過程が、これほどに丁寧に語られた本を、確かにほかに私は知らない。クラドックが実体験した「気づき」を、余すところなく紹介してくれているのだ、というようにも感じる。申し分のない教科書である。これらを真摯に学び、共感できる信仰をもち、自分なりの仕方であってよいが実践していくようにするならば、日本の教会は、必ず変わると思う。命の言葉が語られ、説教というものは飾りではなくて、神の言葉なのだという、聴く側の信仰が生まれると思う。
 もちろん、サブタイトルにもあるように、これは説教をつくり、語る者に向けての教科書である。だが、それだけのものではない、と私は信じる。それは、聴く側が、説教者の苦労を知るためであってもよいが、それ以上に、聖書とは何か、聖書を読むというのはどういうことか、それを痛感させられるに違いないからである。聖書とは何か。教会とは何か。信仰とは何か。キリスト者とは何か。そんな根本的なことが、この本の随所で語られている。神を「知る」経験をもつ方には、それらが生きて働くであろう。あるいはいま神を「知らない」人にも、ここから神に出会う備えができるかもしれない。やはり、思い切って買ってよかった、と心から思う。
 なお、これを読むとき私は、蛍光の黄色のインクのボールペンで、重要な文には傍線を引いた。これは私にとりありふれた読み方である。だが、今回新たなことを始めた。その文の中でも、重要な語句だけに、太い黄色のマーカーで文字を塗ったのだ。ぱらぱらとめくっても、大切な語句だけが次々と目に入ってくる。ラインを引くのは、読みつつあるときに、同じ文を二度読みするためでもある、と私は考えていたが、一度読み終わった本をさらに何度でも見直さなければならないというときには、この太いマーカーは役立つことだろう。さらに、百箇所はゆうに超えるだろうか、フィルム附箋を貼っている。紙の附箋だと厚みが出てしまうが、フィルム附箋だと頁が浮くようなことはまずない。最重要な文には赤の附箋、悪い例には紫の附箋、定義的なところには緑の附箋、などというように、自分の中で緩いルールを決めておき、その基準で附箋を貼っている。後から探すとき、後から開いたときに、これも意味をもつ。このフィルム附箋、細いものにしているからなおさらかさばらないし、それだと三本で1円くらいのものだから、憚りなく貼ることができる。私の読み方をご紹介する場所ではなかったかもしれないが、今回特別に触れてみた。




Takapan
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