本

『説教批判・説教分析』

ホンとの本

『説教批判・説教分析』
加藤常昭
教文館
\3600+
2008.12.

 購入リストにずっと挙げていて、価格が手の届く範囲に入るのを待っていた。その機会が来て、2000円を下回る価格で購入できた。ランクは「可」と低かったが、届いてみると驚いた。私の目には新品同様だったのだ。いま同じサイトを見ると8000円ほど出さねば手許に来ないようだ。実にありがたいことだと思った。実は、これはキリスト教系大学図書館から払い下げられたものである。線の一本も引かれていない。幾人の学生がこれを手にしたことだろう。しかしそれにしても、十年ほどで落ちているというのは、ある意味で残念なことでもある。
 私も多くの礼拝説教を聞いてきた。エヴェンジェリストの情熱溢れるメッセージもあれば、原稿棒読みで魂に呼びかけるものが何もないようなものまで、様々である。本書はそのようなあらゆる説教を網羅するものではない。加藤氏のことであるから、当然ドイツに傾いている。しかしアメリカのことについてもちゃんと理解を示しているので、決して特別に偏っているとは言えないと思う。また、最後に福音派のメッセージが違うところがあるというような感じ方示しているところがあるが、その意味でも、本書が日本の説教の全部を射程に置いているかどうかは分からない。だが、本当に命を与えるための説教という場への熱い思いは終わらない。互いに磨こうとするその意図を否定さえしなければ、実に有意義な試みであろうし、また、他に類を見ない企画であるというふうに私は捉えて受け容れたい。
 そう、実際、タイトルが鮮烈である。テーマが「説教」であることは分かるが、「批判」ときた。もちろん、これは「非難」の意味ではない。適切な吟味を施すという意味であるはずだ。ドイツ語操り、その哲学を学んでいる加藤常昭氏が使う「批判」の意味である。そして「分析」とくると、まことにカント哲学が繰り広げられるかのような錯覚さえ抱く。いや、実際ここには、説教というものに対する、徹底的な取扱いがなされているのである。
 400頁を越える厚みのある本だが、ここで説教の分析ということの理論的な説明は、その五分の一しかない。多少、他の著書などでもその内容については触れられていることを知っていたので、私は比較的スムーズに読めたが、本格的な勢いで語っているので、学術的な色彩が濃く、慣れていないと戸惑うかもしれない。著者の関心は、説教そのものにもあるのだが、なんといっても教会共同体の形成というとこに結びつくものとして説教を位置づけている思いが強い。それでいて、ドイツで培った、幾人かの人物による直接的な説教修行に基づき、説教とは何かを徹底的に追究してきた経緯がある。これまで、そうしたドイツの説教学についての書の翻訳に勤しみ、自らも文学として、あるいは愛の手紙として様々に論じてきた説教についての考えが、コンパクトではあるが、集大成されたと見ることもできる「理論篇」であると思う。
 説教分析は、対話によってなされるとそこで記されている。説教者がその説教を、批判的に聞いているという状況は、実に話しにくいことだろう。模擬授業のようなものである。しかしこの説教たるもの、神の言葉を語ることであり、聞く者に命を与えるというのがモットーである。それが、審査的に扱われる場というのは、一種異様な雰囲気であるには違いない。そのための具体的なアドバイスもここでなされているので、読者としては、五分の四を占めるその「実践篇」の意義についても十分備えをして臨むことができると思われる。
 そこでは、実際の説教を分析する。その説教のどこがどうであるということの批判である。まず著者が尊敬する、竹森満佐一氏の説教が載せられる。これには、各頁の下段に、著者の批判、あるいは解説と言ったほうがよいかもしれないが、説教の随所における注釈が入る。しかしそれは内容の説明ではない。「思います」という表現がとられていることの意味を解説する、といった具合なのである。なぜここからこのように流れを変えたのか、その理由が詳しく説明される。それは、竹森先生の気持ちを代弁するという思い切ったことなのであるが、同じ説教者として、また竹森先生を尊敬する弟子のような者として、そこから学んだからこそ思い入れのある解説となっているような気がする。
 このような形で2つの説教が、いわば模範演技のように掲げられた後、著者が築いた「説教塾」のメンバーたちによる、いわば生徒の実演が始まる。著者のみの、手厳しい批判が展開されていくのだが、なかなか緊張感が走る。しかし、どこがどのように問題なのか、どこをどうすれば改善されるのか、これをコーチできるというのが、やはり先生の仕事である。この構造そのものはよく理解できる。実に的確に、ここがこうなのだ、ということを指摘するというのは、教師たる者の才能でもあるし、当然の仕事でもあるのだ。
 以前原稿として挙げられた、同様の批判も、本書に含めるべきだと考えたのか、再掲載される形になっており、読者としてはいろいろな角度から、有益な指示を受けることができる。そしてメンバーたち相互による、実際に交わされた分析批評の発言が、そのままに掲載されている終わりのほうは、生き生きしていたまた面白い。著者だけが分析していた前半とは異なり、たとえ説教者であるとはいえ、一般の教会の会衆が聞いてどう感じるかというものも、伝わってくるような思いがするのである。そして、著者は彼らに、その見方は足らないとか、実はこういうものなのだよ、とそのわいわいとした感想の場でも、指導していく様子が伝えられてくる。先生としては自由にもう少し生徒に語らせてもよかったかもしれないが、授業が実入りの多いものとなるために、先生のほうが積極的にリードして、多くの意見を言う必要があったということだろうか。また、生徒の意見が気ままに暴走することがないように、絶えず交通整理をしていったとでも受け取ればよいのだろうか。普通の学校での授業で、生徒に語らせつつも先生が実は特定の路線に導いていくという様子を彷彿とさせる内容と感じた。生徒としては乗せられていくだけだが、読者としてはこれが実のところありがたい。結局これを理解すればよいのだ、ということが明確になるからである。
 説教が変われば教会も変わる。そして人々もこの国も変わる。このようなビジョンの下に、説教とは何かを考え、説教を毎週実践しつつ、互いに学び合う場としてもう何十年と続いてきた「説教塾」は、様々な形でその成果をキリスト教界に問うている。その仲間たちの選りすぐりの説教集が出版されてもいるし、私もそのいくらかにたいそう刺激を受けた。説教は基本的に聞くものであって、音声としての意義を軽視してはならないのだが、それを網羅するには限度があり、原稿を読むという営みも必要なものとして受け止めるべきであろう。一度読んでラインを引きまくったものの、一度だけしか読んでいないあの説教集たちを、もう一度開いてみようかと思った。また、本書の最初の「理論篇」は、実例をたくさん見て本書を読み終わった今だからこそ、再び味わうべきではないか、というふうにも思った。抽象的な理論は、具体的な実例を経て、より命が吹き込まれて伝わってくるものだからである。




Takapan
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