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『説教者を問う 説教塾ブックレット1』

ホンとの本

『説教者を問う 説教塾ブックレット1』
説教塾編 加藤常昭
キリスト新聞社
\1200+
2004.10.

 説教塾の成果をキリスト新聞社が出版してくれたもので、その後これより薄手でブックレットが出され続けている。その都度の問題意識の中で特集が組まれてくることになるが、初回はとにかく看板だということで、主宰の加藤常昭氏が自分の考えを振り絞って披露してくれている。
 その説教論は、ずばり『説教論』という書も含め、様々な角度から他で論じている。ドイツ系の神学で著名な神学者たちとも直接的な交わりをしていた人であるが、説教に対する情熱は日本で随一でもあろう。そこで、欧米で目を向けられてきた「慰め」や「文学」といった視点、また「神の言葉の神学」という考え方など、ひとつのことだけでも論ずれば一冊以上の本が必要になるだろうというような有様で、多くの著作を呈してきた。
 私の見た印象では、そうした様々な考えを、精緻な論文のような形でなく、とにかく語るだけ語るぞというようにして、ひとつに盛り込んだのが本書である。テーマは確かにひとつ定められており、タイトルにあるように「説教者を問う」というものであるが、これを根底に構えると、多くの視点がそこに見えてくるのだ。筆者自身、パースペクティヴという語を用いて、説教者がどこに立ち、どんな地平を見ているのかということを問いかけ、重視しているわけであるが、本書自体が、この説教者を問う地平に立つことで、神の言葉を、すなわち命を伝える説教という教会の、そして礼拝の要をここに意識させようとしている。
 カルヴァン系で、教会というものを非常に重んずるその姿勢は、時に頑固にも見え、またカトリックではないけれどもしっかりした土台を築こうとしている中で福音を貫こうとするものであるが、説教が命であるということについては、日本の説教者、牧師は、きっと注目してよいし、注目しなければならないと私は思う。説教が変われば日本は変わる。それは正しいと思うのだ。
 しかしながら、近年の世代と近未来は、従来の観点だけで捉えきれるのかどうかは、流動的であろう。もちろん、二千年の教会の伝統がいとも簡単に突き崩されて、流れ去るようなものになってはいけない。しかし、私たちの見てきた礼拝形式がこの二百年かそこらの西洋近代の教会での礼拝形式に囚われてきたことからも考えられるように、自分の慣れ親しんだものがすべてである、と豪語することもできなくなっているのは確かである。その意味で、20世紀半ばからのドイツの説教だけですべてが説明できるのかどうか、は括弧に括っておかなければならないだろう。
 それでもなお、私は思う。この説教に対するムーブメントは、必ず踏まえなければならない、と。説教者とは何か。これを問わずして、何かしら霊のままに語るというような、安易な人が実際現れてきている。それが牧師だ、伝道師だ、とまかり通るようになってきている。やはり古典なり基礎なりが踏まえられていなければ、なんでも自由にやるのがよいのだというふうになると、戦後民主主義教育の行く末が案じられるのと同様なことになりかねない。
 アメリカでも新しい動きが起こり、いまや主流になりつつある。説教塾の中では、それを受け取り生かしていくようにしている動きもある。著者が見た風景を大切な基盤として、いまここにおける世界と自分を覚りつつ、神の言葉を語る説教が、教会で語られ、出来事となっていく必要が、きっとあるのだ。著者がこの「出来事」と「いまここに」という語も度々用いるのを、私は個人的にうれしく思う。それは私のモットーでもあるからだ。その意味で、私もまた、著者と共通の思いをすでに抱いていたのだろうと感じる。だからまた、呼んでいて何の違和感もなく、肯いていくことができるのかもしれない。
 活字が大きく読みやすい。それでいて、内容は重厚である。再版も望みたい。もっと読まれ、考えられてよい。著者の活動の、コンパクトなダイジェストであると思うからだ。きっと、日本のキリスト教の運命は、そこにあると感じるからだ。




Takapan
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