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『<責任>の生成――中動態と当事者研究』

ホンとの本

『<責任>の生成――中動態と当事者研究』
國分功一郎・熊谷晋一郎
新曜社
\2000+
2020.12.

 國分氏の前作『中動態の世界』は、元来ギリシア語の中動態というものについて関心があった私が繙いたものであった。だが、それは文法書ではなかった。中動態については、「自身」を目的語とするoneselfを表す、という程度のことしか、ギリシア語文法書には普通載っていない。実のところ明晰な説明というのが、どこにもなかったのだ。前作は、それに対するひとつの挑戦であるのだろうと思われた。だが、必ずしもそうではなかった。もちろん中動態については様々な形で、たとえばスピノザを取り上げて解明への道を進むなどアドベンチャーを見せてくれるのであるが、著者の意図は、その先にあった。それは私たち人間の意志というものの存在について問い、そこから責任とは何かを考えようとするものであった。
 本書で、それがひとつの解決を得た、と言えばよいのではないかと思う。ただ、今回の本は、共著である。いや、熊谷氏と二人でのトークを収めた、ただそれだけである。ソクラテスの場合のような、対立するようなことの多い対話篇ではない。互いに共感し、また刺激を受け合う関係にある友人なのだが、単に相手に同調するというものでもない。互いの分野・立場から見える景色をぶつけ合い、そのテーマについて対話をしていく訳で、そうすると、自分の側からだけでは見えなかった風景が見えるようになってくる、それを期待させるものとなっているのである。
 熊谷氏は、國分氏と同年代、小児科医であるが、小児科について話をするというのではない。脳性麻痺から車椅子生活をしている方で、先端科学技術研究センターの教授という肩書きもある。小児科学という分野のほかに、「当事者研究」という点でもパイオニアであり、オピニオンリーダーである。「当事者」という言葉は、ある意味で日常語であるが、その問題に加わっている本人というような理解でいいし、さらに法学で使う用語かなと思う程度でも十分なようだが、これがいま研究されているというとき、これは、障害者や差別を受けている人々を広く含むように考えられるようになった概念である。そのスタートは、21世紀になるあたりからであろうか、北海道のべてるの家や浦河赤十字病院精神科において、精神障害者とその家族に関するプログラムをいうのであった。それは、障害者を障害のない姿に近づけようとしてきた従来の治療や扱いに反し、むしろ社会のほうを変化させようとする方向に転ずる考え方を世に呈してきた。まだ十分ポピュラーに社会に認知されている言葉であるようには思えないが、今後恐らく広まることだろうと私は期待している。
 ここまででずいぶんと文字数を要した。この後、本書の内容や主張を綴ると、果てしなくスペースが必要になりそうである。二人の対談講座が、序章と四つの章の五回にわたり展開して、その都度「質疑応答」もなされており、それもここには収録されている。なかなか有用な質問が多く、いきなり問題を指摘された二人の対応も様々で、読み応えがある。
 中動態と当事者研究とがどう結びつくか、が序章で説明される。ここで実は、『中動態の研究』の要点が実に簡潔に、しかし必要な分がしっかりと語られている。この理解は、この後の対談の展開にとり重要であるのだ。また、いくつかの基本的な用語が説明され、本章に入ってからのために概念を確認することとなる。
 意志の概念がギリシア哲学の中に見られないことは前作でも指摘されていたが、この意志がないときに、私たち現代人が考えるような責任というものが追求できないことは、結末へ向けての大切な考えるポイントとなる。つまり、責任が問われるのは、その意志があったからだろうということで、私たちの社会は、犯人探しに躍起であり、責任者を指摘して集中砲火を浴びせるのが通例となっている訳である。
 さらに中動態から主体たるものの生成と題し、いわば現代的な自我論が展開する。いったい「私」とは何か、ということである。まさかデカルトのような方法で「私」を立てて、それから認識や学問を構築していくということになるはずがないのだが、「私」はまた、どのようにして私となるかというと、他者によって、という考え方があるだろう。こうして、私と他者、さらに社会というものの成立が問われていく道ができる。このときに、当事者研究が表に出ることとなる。
 最後には、中動態と責任という、いまここまで論じていきたいと考えていた地平へ、私たちを連れて行く。能動態と受動態という対立しか気づかないようなあり方では、人間の捉え方も社会の構造も行き詰まるであろうというのだ。この対立は、実のところ比較的新しい考え方なのである。古来は能動態と中動態というのが対立図式だった。中動態は、行為が主語を場として主語の中で成り立つ仕組みである。このような捉え方で主語を見出すとき、近代人が思い込んでいる、これぞ唯一だというような思考構造が、しかも時代の閉塞感を招いているその思考構造が、改められる可能性があるというのである。
 絶えず、障害者の問題を参照しながら展開する本書の対談は、読んでいてとても楽しい。楽しいばかりでは終わらず、実のところ深刻でもあるのだが、私たちは、非常に新しい形で、哲学をしているという気持ちになってくる。私たちはもっと哲学しなければならない。哲学者を知っているとか、哲学用語を理解できるとかいうことを求めているのではない。私たち自身が陥っているような構造を、メタ的に見抜き指摘するタイプの人間が必要なのである。そしてそれが、哲学者と呼ばれるに相応しい者なのだろう。
 私はさらに、この「当事者」についてはもう少し学んでみたいと思った。この考え方は、聖書をどう読むかという問題にも、深く関わりうると直感したからである。




Takapan
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