本

『世間の目』

ホンとの本

『世間の目』
佐藤直樹
光文社
\1470
2004.4

 一つのヒントが謎解きを完成し、すべての疑問を、理解できる糸でつないで見せてしまうということは、テレビの刑事ドラマだけかと思っていた。この本は、私の長年の疑問に大いなるヒントを与えてくれた。ほかの人にとっても、何か目からウロコが落ちるような思いと共に読み終わるのではないかと予想する。
 日本には人権というものがない、とこの書は断言する。ある先人の声を引用してのことだが、この著者は、考えに考え抜いて、「世間学」なるものを作ってしまった。日本に独特の集団概念である「世間」をキーワードとして、さまざまな現象をとらえていこうというのである。
 専門は刑法関係である。しかし、その刑法の知識などを必要とすることもなく、身近な生活世界の問題として、すべての記述を受け容れて考えていくことができる。
 日本人をとりまいているのは、「社会」という西欧近代思想がもたらしたものではない。人の目につねに見つめられ、人への気遣いをもとに成立している「世間」の力である。そしてそのことを、身近な現象を縦横に用いて説明してくる。実に分かり易い。
 世間という背景の存在を伝えるために、筆者はあらゆる現象を活用する。生活の中で見られる私たちの、考えてみれば何故だと思われるような行動や判断基準。そこに、世間の呪縛が存在していることに気づかせていくというのだ。それはやはり欧米との比較によって分かり易くするしかないのだが、それがまた面白い。個人の確立はヨーロッパによるものだが、その分析そのものは浅薄で、キリスト教のある時代に根拠が置かれている。もちろんそれを追究するのがこの書の目的ではないのだから、それでいいが、できればその辺りも別に論じて戴くとありがたい。
 医療と死の問題について、日本人は、世間の目の中で行動している。学校という場には独特の世間がある。いじめもそうだろう。職場も然り。それから、日本独特とも思われるような、事件でのありようも例示される。大阪の付属池田小事件の犯人についての分析は身震いがするほどリアルである。また、長崎の児童誘拐殺害事件も例に出されている。子どもを大人として扱うためには、逆に子どもに様々な自由と権利を与えなければいけないという指摘には、なるほどと頷かざるを得ない。
 マスコミ報道にも世間というものが満ち満ちているというのは、面白い指摘であった。なぜウサマ・ビン・ラディンと呼び捨てにせず、「氏」が付くのか。そう、私もまたそれは疑問だった。ほかにも、事件に対して匿名で押し寄せるいじめの電話やメールなどが、どうして発生するのかも、よく分かる。
 最後に、この情報化、インターネット化された時代に、世間というものが解体されるどころかむしろ日本ではどんどん進化している点に、しっかりと目を向けさせていることも慧眼である。あの、無節操な携帯電話の人々は、私から見ても、閉鎖的な世界、つまりここでいう世間の限られた人間たちにしかできないことをしている、とずっと思っていた。個人というものが存在しないという、ややオーバーな筆者の指摘も、ある意味で私は携帯の嵐の中で、その通りだと信じてやまなかったものである。
 だから私は、この本が面白くて仕方なく、最後まで共感して読み終わることができたのである。




Takapan
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