本

『世界は宗教とこうしてつきあっている』

ホンとの本

『世界は宗教とこうしてつきあっている』
山中弘・藤原聖子
弘文堂
\2310
2013.12.

 サブタイトルは「社会人の宗教リテラシー入門」という。これはなかなか読み応えがある本である。そして、一読しただけで「ふむふむ」とは終われないものを感じる。
 日本における常識が、世界における非常識となっている代表例が、宗教問題であろう。「無宗教」と周りに合わせておく空気、はたまた無根拠に「宗教は危険だ」というデマがまかり通っている精神環境、そして実のところ宗教というものについて学ぶこともなく知識すら欠けている、すなわち宗教と習俗との区別がつかないでいるありさま、そういったものがこの国にはあるように見える。
 しかし国際交流は、自分が海外で活動することのほかに、外国人が日本に来ることも含め、宗教に無関心でいられない時代になってきているのは確かだ。いきなりあらゆる宗教を知っておかねば、というのも無理な話だが、たとえば会社にムスリムを雇用したとき、殆ど人権侵害とも言える仕打ちをするならば、法的な問題すら生じるということを聞けば、関わりがない、知らなかった、などと言い訳ができない状況だということが分かるだろう。
 では各種の宗教者と付き合うにはどうすればよいか、知りたいと思って書店に行っても、従来、ノウハウ的なものが多かった。また、誠実に作られていても、個人の調査や考えに基づくものばかりだったように感じる。それはそれでよいのだが、実際外国のその信者がどのように考え、行動するのかということ、あるいはまた、葬儀ひとつとっても、それに対してどういうスタンスでいるのかという当事者の視点というものが描かれて紹介されていというのは、稀有であったと言えるだろう。あってもまた、ある外国人個人の眼差しから述べたもの、というところだろう。
 今回の本の優れているところは、フィールドワークが活かされているということだ。いや、世界各地を歩いたというわけではないようだ。日本にいる留学生を呼び集め、宗教について話してもらった記録である。彼らの目を通して座談会で自由に語られている、ということだ。実際信仰をもっている当事者が、どのような感覚で生活しているのか、ということが正直に書かれている。そのため、同じイスラム教であったとしても、個人により感じ方がいろいろあることも分かってくる。概して言えることと、個人により違うこと、掟だからと厳密なところと多少緩いところ、それも国の違いによりまた理解も様々だなどということなど、興味がつきない内容なのである。
 それでも、留学生が殆どであるために、世代としては比較的若い人々の視点である。また現地のお年寄りは違うことが予想されるし、ここに語られたことは、若い世代独特の理解であるかもしれない。日本でも、若いキリスト者だけ集めて語らせたら、また教会の実態とは微妙に異なる声が出て行くばかりであるかもしれない。こういう意味では、ここにある座談会によりすべてか網羅されていると早合点してはならないだろう。
 しかし、その点は、宗教学者の編者や多くの執筆陣がカバーできることもあるだろう。なにも語ってもらったことが本のすべてではなく、それは一部に過ぎない。宗教学者たちの丁寧な解説が随所にあり、語られたことについての注釈も見事である。さしあたり読者は何かを調べることなく、読んでいけば内容が呑み込める。ただ、実際呑み込むためには、読者にも信仰があることが望ましいような気もする。野球をまるで知らない人が、プロ野球選手の書いた本を読んでどう理解するか、を想像するとよい。知識として受け容れたにしても、その実感は抱くことができないであろう。
 それにしても、生活の様々なシーンについての情報がそこかしこにある。日本からのおみやげで喜ばれるもの、となると宗教にはあまり関係がないかもしれないが、インド生まれの人の生まれ持った、役割分担の考えなどは、言われなければ対処できないようなことではないかと思われる。
 相手の宗教はむしろ尋ねておくほうか好ましい国もあれば、韓国のようにことさらに表に出さないことを好みがちな風土もあるという。また、それも個人差があるだろう。宗教は必ずしもその教義を知れば分かるというものではない。しかしまた、偏見も多いことだろう。ムスリムの誠実な生活には尊敬せざるをえないし、彼らに別の宗教もどうだね、などと呼びかけることは、相手の命を奪うことにもなりかねないなど、普通は想像だにしないだろう。
 本書に『聖☆おにいさん』のことが出てくる。留学生は、遠慮がちに言っているが、これはまずいという空気が伝わってくる。仏教やキリスト教が厳しいクレームをつけない理由も私にはよく分からないが、このマンガには、ムハンマドやイスラム教は一切登場しない。ここは厳しくクレームをつけると予想しているからだろう。出版社自体がどういう目に遭うか知れないので、ストッフがかかっていることは容易に想像できる。しかし、だったらそもそもいわば実名で、尊崇の対象を茶化すようなこともできないはずだろう。このマンガを面白がるという風土が、実はこの本の掲げる「宗教リテラシー」が必要である理由そのものであろうし、また、実際それの欠落している日本の精神風土を証明していると言えるだろう。こういう描き方が許されているという精神こそ、この本の最大の敵なのだ。いや、だからこそ、この本の存在意義があるべき、と言わなければならないだろうか。




Takapan
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