本

『世界説教史V 17-18世紀』

ホンとの本

『世界説教史V 17-18世紀』
E.ダーガン
関田寛雄監修・中嶋正昭訳
教文館
\4200+
1996.4.

 全六巻のシリーズものである。さすがにまだすべてを読んだわけではないが、手頃な価格になったら入手するようにしている。今回は17世紀から18世紀という枠組みの中で、キリスト教会の「説教」と「説教者」に光を当てていることになる。
 あまりに個別的なことに拘うと、時代の流れを見失う。また、時代を政治だけで大雑把に描いてしまうと、人々の心の問題を無視することにもなる。歴史を記すというのは、一定の立場から一定の視野でなすものだろうから、バランスが難しい。本書の場合は、時代の概観を、けっこうな場所をとって読者に印象づけ、それから一人ひとりの説教者の紹介とその意義を提示していくことにしている。読みやすい構成だろうと思う。
 それも、話題を「説教」に絞っているのがいい。へたに教会史に関わろうとしたり、宗教界の問題を取り上げようとしたりすると、収拾がつかなくなる虞がある。また、説教者の中には、政治家的な働きのあった人や、文学者、賛美歌作者などもいることになるが、それらの他の業績について論ずることになると、話題が分散するし、肝腎の説教についての流れが途切れてしまう。そうしたことを論ずることを、禁欲的に排除しているのは、読者のためにはむしろよかったと思われる。
 そのため、内容に大きな盛り上がりがあるわけではない。極めて淡々と、その時代の政治的な情況とキリスト教世界の様子を説明し、一人ひとりの短い伝記をコンパクトにまとめて綴ることで、一冊が終わってゆく。
 中には、数行で一生が語られ尽くす人もいる。さすがに有名な人は何頁かにわたって説明されるが、それもかなりコンパクトである。稀に、こんな説教を語った、という意味で、説教の一部がそこそこ長く引用されることもあるが、概して、その生涯と説教の傾向がまとめられる形で終わりとなる。それも、かなり抽象的な評価が多いので、私などは、一生を説教のために貫いた人々が、これほどにばっさりと斬られるように言い切られて、そんなものなのだろうか、というふうに少し悲しい気持ちも懐くことになる。技巧的だ・散漫だ・教育的だ・想像力がない・情熱的だ・均整のとれた思想・無味乾燥だ・単純だ・論理的だ・道徳的だ、等々枚挙に暇がないその評価は、当人にとっては残念な評価であることが多いかもしれないが、読者のためには致し方のないところであろう。
 但し、その生涯が語られるところでは、やはり味わい深い。孤児であった人も目立つ。というのは、当時ヨーロッパでは、子どもを「捨てる」ことがかなり頻繁に行われていたことが背景にあるのだろうと思う。教育学のルソーが子どもを何人も孤児院に捨てたことは有名だが、それは当時の習慣であった、という話を聞いたことがある。また、十人子どもが生まれて殆ど死んだとか、親が何度結婚したとか、そうした境遇は、興味本位に聞くのでなければ、神がどのように人を見出し、育むか、という点で味わうべきことが多い。本人の家庭生活についても同様である。誰とは挙げないが、有名な説教者が、いまならアウトかもしれない女性問題を抱えていたとか、不幸な結婚をしていたとか、そうしたことも実に淡々と書かれていて、あれよあれよという間にその人の叙述も終わってゆく。そうしたことの繰り返しである。
 キリスト教の「説教」は、聖書から神の言葉を語る、というのが建前になっている。実際そのように信じて語る教派や人々もいるが、ただの礼拝の形式的な飾りになっているだけのところもある。その是非を、本書が問題にしようとしているのではないはずである。但し、社会のあり方、つまり政治や経済、思想的環境などにより、どのように教会の説教者が、説教と向き合っていたか、ということは、伝えてくれているような気がする。「説教者」である。牧師や司祭に限らない。中には「信徒説教者」も見受けられる。それぞれに人生があり、いろいろな背景の中で導かれ、神の言葉を礼拝で語るようになった。中には野外で伝道のために説教を繰り返した人もある。野外でなどということが異端視されたような時代の中で、何千人という人を救いに導いたのは、やはり偉大な力であり、祝福であると見るべきだろう。
 いま自分が置かれている情況や、いま自分が見ている景色が、真実のすべてではない。だからこそ「赦し」というものもあるのだろうと思うが、「説教」についても、実に様々な側面があり、それぞれの時代で語るものを勇気づけ、聞く者を救いと平安へと導いたのである、ということを改めている。この教会の営みが、今後も「説教」を通じて続いていくのだろうか。ふと、不安にもなった。




Takapan
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