本

『世界説教史T 古代-14世紀』

ホンとの本

『世界説教史T 古代-14世紀』
E.ダーガン
関田寛雄監修・中嶋正昭訳
教文館
\4000+
1994.3.

 日本語版では全4巻に渡る「世界説教史」の最初だけを購入した。説教そのものが掲載されているのではない。その歴史を概説するのである。説教そのものを集めたものはいくらか読んだことはあるが、キリスト教会の初期においてどのように福音が語られたか、それを一定の見解の中で説いてくれるものを読みたいと思った。もちろん、比較的手頃な価格で入手できるというのが第一条件ではあった。つまり、中古本でいくらか安く手に入ったのである。
 序論の冒頭で宣言されている如く、「説教史」に関する本はあまりない。少なくとも「総合史」と呼べるようなものが欠けていると本書は告げる。個人的な説教への信念のようなものから、説教とはこうである、と語るものはいろいろある。それなりに味わうべきところがある。本人がいくら、これが本道だ、これが唯一だ、と確信していたとしても、もちろん説教にはいろいろなタイプがあり、やり方がある。そこへいくと、説教史はひとつの客観的な記述に近くなるので、どうであってもよいというようなことはない。
 もちろん、説教者の評価については、主観が伴う。本書では、けっこうきつい当たり方で、一刀両断に批評しているようなことが多々あるが、その認識が普遍的であるのかどうか、それは分からないと言うべきではないだろうか。だとしても、ひとつズバッと斬り込んで語る評価は、読者としては実に参考になる。曖昧にするよりは、ズバズバ話してくれたほうが、後からそうじゃないということを知ったとしても、有意義ではないかと思う。
 説教は、人の人生に関わる。人生を変えることができる。そういうものとしては他に、哲学や文学、文化といったものがそうであり、時に科学も変えることがあるだろう。否、教育こそ多大な影響を人間に対して与えるものだというのも本当だ。このように人類の営みのあちこちに目を向けながらも、説教はそのどこにも関わる力をもっているということは、何も本書がわざわざ言わなくても、キリスト者ならば周知のことであろう。神の言葉は出来事となり、ただの絵空事ではなく、現実の事実として実現する。それは説教という語り方から投げかけられる神の言葉である聖書の句が、聞く会衆の中に入り命となって、その人を生かし、現実化するのである。
 というような概論ばかりを本書は言うのではない。時代の区切りをまず、70年・430年・1095年・1361年、そして原著の1冊を2冊に分けたがために中途となったが、本書は1361年を指摘したところで閉じられる。教父の頃から、説教としての実入りの少ない「暗黒時代」をわりと暗い気分で通過した後、中世としての優れた時代、スコラ時代を描いたことになる。
 説教であるから、当然説教者を紹介する。その人の生涯を概観し、その時代の流れの中でどういう位置を占め、誰とどのような関係があり、誰がどのように聞いたか、などについて綴られる。資料は豊富であるから、取捨選択も大変だったことだろう。著者の個人的な趣味や見解も多々あることだろうが、読者としてはそれを楽しめばよい。
 たとえば『世界 説教・説教学事典』と言う大きな本がある。これは、あいうえお順(当然元はアルファベット順)に項目が並んでおり、正に引くための並びであったのだが、本書は、時代順に並べられていく。時間的な展開を知っていくようになる。そのような読み物として、十分楽しめるものとなっているに違いない。全く知らない人のことも多く見たし、有名どころでも、このような人であったのだとか、このように評価されていたのだとか、その自体に身を置いたような気持ちになり、未体験の風景を見るような気がするのである。
 当然すぎることだが、巻末に「人名索引」がある。ふとここからまた本文の中に戻って行くことができる。引用文献もあるが、「はしがき」が1904年の日付となっている。こうなると文献は19世紀のものである。これはこれで載せていいものなのだろうが、それよりも、「事項索引」もあればなによりだった。贅沢な要求ではあるだろうけれども。




Takapan
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