本

『世界のエリートが学んでいる 哲学・宗教の授業』

ホンとの本

『世界のエリートが学んでいる 哲学・宗教の授業』
佐藤優
PHP研究所
\1400+
2018.4.

 一信徒としてキリスト教界に詳しく、さらに特異な過去をもつ中で、政治の世界とその裏に通じている著者は、その知識や才覚を活かす形で、著述業として大いに活躍しているところである。
 今回は「授業」というタイトルが、私にとっては少し曖昧だった。結局、聞き手として、筑波大学非常勤講師の小峯隆生氏が生徒役を演じる形で、対話形式でテーマに沿って説明を重ねていくということで、恐らく実際に喋ったことをほぼ忠実に形にしたのではないかと想像する。
 そこでその辺りの事情をきちんと説明しておくと、同志社大学神学部でプロテスタント神学を学んだ著者が、その経験を、政治の理解にも活かすこととなった、という告白から本書は始まる。小峯氏の協力の下、「哲学的訓練」と題する講義を筑波大学で行ったことを契機として、その内容をここに書物化したというわけである。もちろん、読者のことを考え、加筆し、読み物としての完成度も高い。
 全部で17講。哲学というものについての専門的な知識や特別な思考訓練は要らない。全体にわたり、物事を別の面から見つめ、背後にある事情を指摘することで、そこらにある生温いコメントや解説とはひと味違うものとなっている。読者としては意識するのは、池上彰氏との比較であろうが、確かに類似のものがあるだろうと思う。しかし佐藤氏の場合は、さらに穿った見方や、裏にある腹黒さなどをズバッと指摘するところが、ある意味で小気味よい。それに加えて、国際舞台の言及において、キリスト教やイスラム教への洞察と事情に通じている点においては、佐藤氏のほうが間違いなく詳しく、信頼性も高い。宗教の内部からの視点があるからである。
 そういうわけだが、本書は前半はその点は殆ど触れず、ひたすら哲学的思考を中核としたものとなっている。「学問」とはどういうことか、議論するとはどういうことか、基礎付けをしようとする姿勢が窺える。ある意味で本書は、この「学問性」について問い続けると言ってもよいだろう。大学で語った内容という意味では、それでよいのだろうと思う。なにげない日常の風景が、ここで刺激を受け、変えられる部分があるとすれば、本書の波に乗るのは半分成功したのだと言うことができよう。
 ヒストリエとゲシヒテの違いなど、ドイツ語で少しでも哲学を囓れば常識であるのだが、とにかく何も知らないような人にも一読して伝えたいことが伝わるようにと配慮している故、軽快に簡潔に説明がなされて、好感がもてる。その他、哲学用語を使うことなく、現実の事件や情勢に重ねながら、ビジネスパーソンにも関心をもって読み進めることができるように上手く展開しているものだと思う。
 漱石の「三四郎」が名古屋で下車した理由や、昭和10年代の江戸ブームなど、理屈抜きで面白いと思わせる話題が零れているが、著者からすればふだんからよく用いる題材なのだろうか。また「ナショナリズム」を説く裏側の心理や、そもそも「民族」という概念自体が新しいものであることなど、現代しか見ていないような私たちが思いこみがちな危険な事柄を避けるための様々な提言がなされている。
 これが11講から「信頼」という言葉が現れ始めてから、急激に「キリスト教」が話題の中心に上ってくる。バチカンの仕組みや背景を、通り一遍の説明ではなしに、歴史を深め、事件の本質を暴くようにして、眼前にもたらすところは、さすがに巧い。AKB48が神となりキリストでもあることなどは、前田敦子の例の本の紹介に過ぎないが、こうした一連の解説の中で出されると、イドラ説をいま一度真剣に考えに出さねばならないという私の考えと重なってくるような思いがした。
 もちろん、イスラムの勢力の背景も私たちは関心がある。テレビの解説とは少し違う味で、信仰の心をも巻き込む形でここに書かれているので、ちょっと読むだけでも、面白いし刺激を受けるのではないだろうか。アラブの春の本質も簡潔に教えてもらった。
 最後には「類比」の思考ということで、佐藤氏自身が学問的にこの本の内容を提示しているわけではないが、しかし学問とは認められない「類比」の思考を紹介して、学問という場でなければぜひこうした考え方を使ってみてほしいと言う。なぜなら、神学では当然のように、「類比」を使わなければ、神について何をも述べることができないからである。
 神学と政治とを知る著者の存在は意義深い。まだまだ活躍して戴きたい。そして私たちもまた、自分の意見を適切に言えるように訓練されていきたいものである。




Takapan
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