『世界哲学のすすめ』
納富信留
ちくま新書1769
\1100+
2024.1.
ちくま新書から『世界哲学史』シリーズが刊行されたのが、2020年から。「あとがき」にも記されているように、それはコロナ禍が始まったときであった。全8巻と別巻から成るが、続く刊行については、編集上も苦労が多かったことだろう。
そのコンセプトは、「人類の知の営みを新たな視野から再構築すること」であった。哲学史といえば西洋哲学史にほぼ限定されていた視野を省みて、「世界」を地平に、時代毎にそれぞれの哲学を取り上げて概説しよう、とするものであった。
私はそれが発売されると共に、すぐに買い求めた。全部で一万円ほどかけて読んだことになる。本書はそのシリーズの責任編集者の一人が、改めて自分の願う世界哲学史というものを眺め直し、世界哲学とは何であるのか、見出そうとする試みである。
ただ、そのコロナ禍を経て、しみじみ感じていることがあるという。「哲学がひたすらに非力で在ること」である。大学なり学界なり、哲学を標榜していても、それは「学術の枠内でゲームのように研究を続けているように見受けられ」たのだという。
その非常事態を経験して、著者は、かのシリーズでできなかったことをリベンジしようとしている。確かにそれは、中国哲学やインド哲学、日本の思想を扱った。だが、章として立てたことは評価できるが、たとえばアフリカの哲学は微小であったし、イスラムですらわずかであった。オセアニアが扱われたのかどうか、私は記憶がない。どうしても、それは西洋哲学に傾いたものであったことは否めない。
だがそれは、仕方がない面もある。文献や史料としては、明らかに西洋のものが膨大である。地域別に等分するなど、できるわけがないのだ。だから分量だけで勝負することは意味がない。
だが、日本について先に「思想」と私は記したが、そこに引っかかりをもった方がいただろうか。そう、西洋でないものは、「思想」と呼び交わすことが一般的であり、あるいはまた「宗教」と括ってしまうことすらある。
著者はあくまでも「哲学」でありたいと願っている。それは西洋に限定されない形で、人類の知を水平につなぐ、あるいは互いに理解する、そうした「哲学」として建て上げたいということではないだろうか。そして、「共に哲学を進める場を作っていく意識的な試み」を以て、「世界哲学」と名付けているのである。
その試みは、「どこで」行うのがよいであろうか。場を西洋に置けば、また偏るかもしれない。なによりその前提あるいは風土と呼ばれるものが、脱却を図りたい当の西洋であることになるからだ。著者は、それができる場を、日本に可能性があると考えている。日本において、「開かれた対話の場」をつくりたい、というのだ。
しかし現状は、やはり各自が狭い領域で専門的な「哲学」の研究をしているのが実情である。「世界哲学史」のシリーズについても、書評などの分野で、冷たく見られている。否、殆ど無視されているという。
既に、大学でも文理が混ざり合うことへの営みが展開している。かつて京都大学が、それに近い雰囲気があったことで、比較的自由で大胆な学術が生まれ、世界に知られていた。官僚的な関東の大学では実現できないような、垣根を越えたリベラルな空気があったと言えるだろう。いまはその流れを汲むような動きが、各地で始まっている。九州大学もそうである。もしかすると、本書のメッセージは、関西や九州を中心に働きかけると、何かが生まれるのではないか、と素人ながらに私は思う。
本書は、この「世界哲学」の理念を読者に伝えるために、しばらくその準備をする。その「世界哲学」とは、どういう時間と空間を設定する必要があるのか。また、それを叙述する「言語」はどうあるべきなのか。つまり、翻訳の問題である。さらに、「世界哲学」は「普遍性」をもつのか。その場合の普遍性とは何をいうのかが検討され、その普遍性という点で先んじている科学との関係を見つめる。
ここから、突如アフリカの哲学について話題が進んでゆく。もちろん限られた範囲ではあるが、アフリカの認識の一端が紹介される。これは読者へのひとつの刺激となるだろう。ただ、その「ウブントゥ」という言葉の説明もまた、西洋哲学的な語でなされるところが、まだまだこれからという現状を露呈してしまう。それは「なるものである」というようなもので、通常対立区別される「ある」と「なる」とを一体で捉えたものであるのだという。こうなると、西田哲学を彷彿とさせるようであるが、実際そのように、哲学が従来のギリシア思想ないしキリスト教思想の視野では捉えられないものであるべきだ、という理解が、むしろ常識となってゆくとよいのであろう。
著者は続いて分析哲学を扱うが、恰もそれで哲学探究が尽きるかのようにさえ思いなしていた20世紀から、次の段階へ脱却することを目論んでいるのであろう。続いて東アジアとインドがクローズアップされる。とくにインドの研究が偏っている現状は、もっと知られるべきことだと感じた。
こうして最後に、ギリシア哲学に戻ってくる。何かしら明確な結論が出たようには思えない。これはむしろ始まりなのである。始まりであるべきなのだ。そのための地固めをすることすら、本書のような新書ではできるものではない。ただ、開かれた対話と議論の場を設けることへと読者を促すきっかけは掴めたかもしれない。ここには近代哲学もなければ、分析哲学を除いて現代哲学の活動に触れることもなかった。
もちろん新書では限界がある。だが、なんとか対話が生まれてほしい、という著者の熱意は、伝わる構成であったと言えるだろう。東アジアもインドも、そのためのほんのわずかな例示に過ぎない。東南アジアにも触れられないし、アフリカもあれだけの大陸を一括表示しかできないのか、と未開発であることが暴露されている面もある。南米もキリスト教があるとはいえ、文化を整理する営みは十分「哲学」に値するものが控えていることだろう。
著者の願う哲学のあり方は、著者が述べるように、「自身の変容」を必要とするだろう。自分が変わることを恐れて、それぞれの牙城で大将でいることで満足するようなあり方では、何も変わるまい。それは、次の時代の扉をノックすることもない、という意味である。どう変わるか、それは著者の描く通りであるかどうかは分からない。ただ、コロナ禍で非力だった哲学が、このまま役立たずになってしまうとき、遺物を漁って懐かしむ程度の趣味に陥るならば、人類の未来は悲愴な見通しの中に消えてしまうことになるかもしれない。哲学が生きることが、人類が生きることになる、というほどの主張は、著者にはないように見受けられたが、もしもそれをお考えであるのならば、たとえ画餅と罵られても、そうしたプランを以て、本書を終えてもよかったのではないか、と私は思う。確かに、自己の変容を示唆し、他者との出会いと対話に道を拓くものがある、ということは伝えているが、その根柢にある本音やビジョンがもうひとつ見えないため、本書の与えるインパクトは、決して強いものとはならなかった。書評を受けたいならば、そうしたインパクトを与える気概があるとよかった。無責任な素人の、感想である。

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