本

『青春は美わし』

ホンとの本

『青春は美わし』
ヘルマン・ヘッセ
高橋健二訳
新潮社・新潮世界文学36ヘッセ1より
1968.10.

 先の『車輪の下』と同様、全集版で触れた。これもずいぶん昔に読んだのは間違いない。雑誌に発表されたものが幾度となく手を加えられ、完成された稿だという。解説によると、簡素化されているのだという。きっと作者自身の体験から様々な要素を描いて発表したものの、作品としてはより無駄を削った形のほうが好ましいという判断がついたのではないだろうか。
 民謡の歌詞「楽しき時の命は美わし。青春は美わし。それもはや来たらず」から取られたのだといい、最初はその句が冒頭に飾られていたのを、いまは削られた形で遺されているのだそうだ。
 確かに自身の体験をもとに描いているのだといい、百年前のドイツのあたたかな雰囲気がよく伝わってくる。それは第一次世界退散の前の頃であり、また稿が完成に至ったのは大戦後であるから、激動の時代の中でまとめられていったことを思うと、必ずしも長閑で古き良き時代を描いたなどとは言えなくなるのであろうが、そうした時代独特の気配や悲壮さを少しも感じさせず、休暇で故郷に戻った男性が温かく迎えられ、懐かしい人々と再会するありさまが、人と人との交流というレベルでしみじみと描かれている。
 ヘレーネ・クルツ。昔好きだった女の子。劇的な再会となると、現代人はどうしてもドラマチックな展開を想像する。だが現実はどうだろう。もしや、と思う期待もただの妄想となって、実際にそれが形になっていくものではない。
 では、ということで現れた妹の友人アンナはどうだろう。「よいお友だちでいましょうね」という言葉は、なんとも残酷である。それなりに思わせぶりな態度をとる女性も女性だが、安易に惚れてしまう男のほうも、ちょっとどうだろうと言われそうである。
 けれども、これは男なら思い当たってよいようなことではないだろうか。もちろん今風ではないかもしれない。しかし私がどうしてヘッセに惹かれるのかというと、この部分なのだ。このようにちょっとした出会いで惚れたという気持ちになり、打ち明けてしまうという経験を、幼い自分は幾度やってしまったことだろう。そのどれもが、マンガのように二人の関係へと発展などしていくものではなかった(いや、皆無ではなかったが)。つまり、ここで描かれたような、男性の心理や行動が、まるで自分のことを暴露されているようで、気恥ずかしく、また懐かしく感じられて仕方がないのである。かつての自分と容易に重ね合わせることができる雰囲気を、よく表してくれていると言える。それで個人的に、惹かれて読んでしまうのだ。
 それにしても、高橋健二さんの訳も、とても読みやすく、また描写が美しい。直接ヘッセと交友があり、そのヘッセも日本びいきであったというから、この二人が協同して、この親しみやすい日本語訳をもたらしてくれたということになるのだろう。文化を共有できるということの素晴らしさを垣間見る思いがする。




Takapan
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