本

『精神と自然』

ホンとの本

『精神と自然』
グレゴリー・ベイトソン
佐藤良明訳
岩波文庫
\1130+
2022.1.

 文庫になることで喜んだ人が多いという。私は専門外でもあるし、その深みを理解する能力はないのだが、難解と言われるベイトソンの中では、珍しく大衆的なものであるのだという。「生きた世界の認識論」というサブタイトルがあり、私たちの思考の根本について、生物学的な視点から語るというフィールドをもつものである。特に、トートロジーを根柢に構えつつ、生きた存在を取り扱うとなると、ユニークな思想であるには違いない。
 科学が一定の前提の上に成り立っていることは明らかである。近代科学とは何だったのか、ここしばらく真摯に問われている。科学が技術とタイアップして、この世界にもたらした影響は絶大である。しかし、それを考えているのは私たち人間の思考である。いったいそれはどうなっているのか。
 つまり、私たちの観念と世界との関係を問うことになるのだが、そこにはどうしても、カントの物自体の呪いのようなものがちらちら見え隠れしてくるのはやむを得ないだろう。私自身は、カントの意図と本書をはじめとする類似の問いかけとは、少し違うのではないかと考えたいが、それにしてもそれは重要なテーマの背後に潜む問題となっている。
 とはいえ、理論的に体系を構築しようとするものではないらしい。様々な事例を持ち出しては、いくらか帰納的に、私たちの気持ちをひとつの方向に導こうとしているかのようだ。但しそれは、生物という立場においてのものとなっていく。
 いったい私たちが「精神」と呼ぶものは何なのだろうか。それは「肉体」と対照されるべきものなのだろうか。また、進化の方向はどのように決定されていくのだろうか。本書のイントロで著者自身が述べているのは、「全体として本書は、生命の宇宙において秩序と無秩序に関する多くの問題を考えることが可能であり有益であるということ、そして今日われわれはそのような思考を主な得ツールを豊富に持ち合わせているということの主張になっている」ということである。
 精神が前提としていることに着目することで、精神というものを定義する試みを投げかけてくるが、そのときにベイトソンは結局、トートロジーという問題を重視する。私たちが何かを説明したつもりになっていたとしても、それは所詮トートロジーに過ぎない、つまり新しい知識を加えるということではなく、内実に含まれていたことを表に出すようなことに過ぎないと考えるのである。
 私たちは、つまり生物は、どこから来て、どこへ行くのか。あるいは、どこへ行こうとしているのか。それは神でもなければ決めることはできないのかもしれない。だが、私たちの行為や意志が、それを結果的に決めてしまうということは覚悟しなければならない。本書は、倫理や道徳という曖昧なものでそれを議論しようとするものではない。生きているもののあり方、事実を重んじ、人間と世界の将来への警告となるものをつくろうとしているように見える。
 それはもちろん、唯物論でもないし、科学で説明してしまおうとする傲慢さとも違う。エコロジカルであることも、著者の重んじることであるのは確かだが、エコロジーという言葉も、ずいぶんと手垢の付いたものになってしまった。そのこと自体が、商業主義の中に取り入れられてしまい、本来目指すものとは縁遠いものになってしまった部分もある。唯物論を唱えるとき、それを唱えている自分も物質であるとするのは、やはり不自然であろう。現に精神や認識がここにあるということを出発点として、現実的に世界観を問うことは、どうしても必要であろうと思われる。さらに生物の事実を踏まえるとなると、著者の視点はきっと人類の歩みに寄与するものがあるはずである。但しそれを、難解な論述の中からどう拾うべきなのか、それを、賢明な人が教えてくれるのを、私たちは待つものである。
 実は、目次について、後悔したことがある。頁をめくったところに隠れていた「用語解説」である。なんだ、これを先に知っておれば、読んでいる途中で、意味を確認するために前の部分を探すような真似をする必要はなかったのだ。
 なお、終わりのほうで、人類学者のお嬢さんとの対話が付せられている。これがイカしている。本書のエッセンスを、父娘の、遠慮会釈ないやりとりで振りまいているかのようである。親子でこのような対話ができるという家庭は、果たして現実にあるのだろうか。などと思っていたら、我が子が大学で学び始め、こういう対話が現実にここで起こっていることを、私は体験してしまった。尤も、私はこんな偉大な思想家などではないから、くだらない思いつきであるに過ぎないのであるが。




Takapan
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