本

『精神科医がものを書くとき』

ホンとの本

『精神科医がものを書くとき』
中井久夫
ちくま学芸文庫
\1200+
2009.4.

 阪神淡路大震災において知られるようになった、PTSDについてはこの方の寄与が大きい。さらにその弟子たる安克昌さんは『心の傷を癒すということ』がドラマや映画にもなり、よく知られるようになった。だが、その師であるこちらは、「スター性がない」そうだ。これは谷川俊太郎さんが評した言葉なので、相当に奥が深いことを想定したほうがよさそうではある。
 中川氏は、文筆家としても知られる。フランスやギリシアの文学の翻訳もする。もちろん精神科に関する著作も多いが、一般の人に伝わるような言葉で、そかもそこでしか語れないこと、知り得ないことを綴ってくれるので、読者としてのファンも多かったと聞く。本書は、元々二冊分あったものを、今回ちくま学芸文庫に収めるために、選抜した文章をのみここに並べることにしたのだそうだ。
 自伝的に、精神科医になるときの経緯や経験が語られるかと思うと、いろいろな人との出会いの話、文学の世界を垣間見せるようなフレーズや言及がこぼれていて、十分に読者を愉しませてくれる。
 自身のその仕事については、非常に感覚的な言葉で表現することが多い。精神科での診療もまた、そのようなものであるかもしれない。何かしら理論をぶつけるのではなく、目の前の患者の言葉や仕草から情報を得ようと努め、しかもそれを教義のように掲げるのではなく、あくまでも目の前のその人を理解しようと思いながら対処することになる。感覚でよいのではないかと思う。もちろん、知識に裏打ちされた感覚である。
 自分の人生を変えたような本のことも語られる。私はそういうのを見ると、すぐに読みたくなる。こうして専門外の、また急ぐ必要もない本を、どれだけ買ったことだろうか。その中に、ヴィトゲンシュタインといった名前も出てくるからまた愉快だ。しかし巻末の「解説」の筆者は、ここに中井先生のスタンスの非常に大きな部分を指摘する契機をもっているようだ。なるほど、と思う。
 自分の人生を導いてくれた、あるいは変えた人の紹介もあった。実際に会った人が多いのは肯けるが、戦争という環境の中での出会いはまた格別であったことだろう。ある意味で単なる個人としての経験談なのだが、それを「読ませる」というのが、やはりこのライターの真骨頂なのだろう。ぐいぐいと読んでしまう。
 精神医療の歴史については、授業はかくありたいと思うほど、嫉妬するほどの面白さがあった。日本史の中で表に出ないその医療が、隠れた重要な精神医療であったことも知る。それがまた西洋史の中で位置づけられるあり方となると違う訳で、非常に興味深かった。
 思いのほか長く描かれていたのが、アメリカの精神科医であるサリヴァンという人のことだった。生い立ちや様々なエピソードが実によく語られている。日本でこの人物についてこれだけ語れるのは、多分筆者が随一であったことだろう。
 やはりこの人のことが好きで、自分の師のように捉えていたのだろうと推測される。サリヴァン物語として、ここだけを独立させても立派な読み物になるであろう。  自ら仕掛けた「問答」もあって、精神科についての読み物としても傑作であるものがある。統合失調症と付き合ってきた著者だからこその、多面的な意見や考えもありうるということだろう。プラトンばりの対話篇なのだろうか。
 神戸という土地における精神医療ということも考える必要があるだろう。予め想定した一定の枠に患者を押し込めるというあり方を精神医療はよしとはしない。神戸という環境の中で育まれたものもあるだろうが、ごみごみとしない人の距離と付き合いというものが、あの震災をも乗り越えるために用いられたようにも見える。人の心を扱うというこの医療は、なんと頼もしいことだろう。それでも、この分野は定まった方法が共通にあるのではないらしい。その都度対処法が異なるであろう。この土地でこそ、やれたこともあるのではないかと想像する。
 不思議なもので、こうした身の上話的なものに耳を傾けているうちに、読者としての私は、自分自身の心はどうだろうかと、ほぼ無意識的に問い直していた。精神疾患の話がなされるとき、それは自分としてはどうだろうかと問われる気がしていた。そして、自分の精神状態を探られるかのような錯覚に陥り、説明される事柄を実感したり感心したりすることとなったのだ。不思議なこの魅力の故にも、自分探しをしている人は、開いてみるとよいのではないか。つまり、精神科医がもの書気であるのならば、読み手は患者なのである。中途半端な知識を喜んでひけらかすようなことは厳に慎まなければならないが、老医師の前にちょこんと座って、話を聞いたり、告げたりしている風景が頭の中に描かれてきた。様々な教養が豊かに現れる愉しみも、味わってみることができることだろう。




Takapan
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