本

『現代思想2021 vol.49-2 精神医療の最前線』

ホンとの本

『現代思想2021 vol.49-2 精神医療の最前線』
青土社
\1500+
2021.2.

 特集が「精神医療の最前線」であるが、その副題として「コロナ時代の心のゆくえ」が掲げられている。2020年からの日本を激震させた、新型コロナウイルスの感染拡大を受けての企画であるが、これを「精神医療」として捉えたところに慧眼がある。
 多くの企画が、コロナウイルスのメカニズムか、予防法めいたもの、また社会の変化というところに目をつけてばかりなのに対して、ここはメンタリティである。しかも、ただの心理ではなく、メンタリティを支える基盤としての精神医療そのものである。
 多くのことを教えてもらった。コロナ禍における、という条件の中で、精神医療の現場がどうであったのか、何をして、何をされ、何ができなかったのか、一つひとつの体験を、理論と重ね合わされた眼差しから、伝えてくれる。
 もう頭が下がるしかない。
 医療崩壊が懸念され、医療従事者へのリスペクトが必要だという声が挙がっていた。他方、医療従事者への差別が現前としている。現場の「見えない」苦労は、伝わらない。
 そんな中、「精神医学は大統領を診断するべきか?」という題の文章は、少し系統が変わっていて目を惹いた。紛れもなく、トランプ大統領のことだ。何かしら精神的な問題があるであろうことは、素人でも分かる。しかし、それを公言すると、政治的な妨害とも取られかねない。選挙においてそれを持ち出すと、訴訟ものとなるだろう。つまり病状を提示する医師の判断がもしも真実でなかったとなると、選挙における誹謗行為となる危険性があるからである。1964年の大統領選挙において、ゴールドウォーター候補を精神科医が精神病と雑誌の調査が報じたことがきっかけとなり、診断なしに精神病的な判断を示すことはいけないという、ゴールドウォーター・ルールなるものができているのだそうである。だが、そのまま放置しておけば、国民の安全を護る義務に反する、という考え方もある。ジレンマなのである。ナチスを止めることができたかもしれないのに、止められなかったことが、取り返しのつかない事態を呼んだことをどう考えるかということである。
 しかし、本誌においてこの話題は特異なものだと言える。概ねやはり、コロナ禍の中での精神的事態に即したものであり、「居場所」や「依存症」、「家族」や「トラウマ」など、この情況になって切実に問題視されている精神的問題に取り組む実情と意見とがたくさん掲載されており、目が開かれる。そして、「バーンアウト」に陥る医療従事者の現場の事情を明らかにすることは、もっと一般市民に知られてよいはずのことである。ワイドショーで興味深く紹介されるのは、防護服だとか、忙しく駆け回る医師や看護師など、「画」になるものばかりである。テレビはとにかく「画」を見せて、視聴者の気を惹かなければ視聴率が取れない。その歪みが、医療従事者に対する誤った印象を植え付けているのであるが、現場はむしろ、その職務達成の場であり、ある意味で当たり前のことをしているに過ぎない。しかし、休みがなくなったり、休みが取れても出かけられない、会食などもってのほか、そして差別されるなどの圧迫が一年間続いている医療関係者の辛さは、職務そのものではない。「燃え尽き」は以前から言われてきたことだが、それが全く身動き取れない状態に追い込まれているというのが、まさに今の状態なのである。この見えない辛さは、テレビは紹介してくれない。だからまたいっそう悪循環に陥る。
 この医療従事者をサポートしているのが、精神科医たちである。これは阪神淡路大震災のときに、知られるようになった。あの震災の背後で、医師や看護師たちを支える精神科医の働きが顕著であった。そしてその経験は、その後の大きな地震、東日本大震災においても役立つものとなった。いまもコロナ禍の中で働きがなされている。このような事実は、先日心理学関係の大学教授と話していたときにも、全く知らなかったという答えが返ってくるほどに、一般には知られていないことである。
 銀行の銀行としての日本銀行ではないが、医師の医師、医療従事者を支える医療従事者として、精神科医の存在はもっともっと顧みられてよい。コロナ禍は、確かに感染症を病むと、命が危ない。それは直接命を奪うものとして対処しなければならない。しかし、精神的な状態は国内全員を襲っている。これもまた、対処すべき重大なことなのだ。
 その精神医療に、注目して戴きたい。もちろん、様々な精神的な苦しみを帯びているたくさんの人のためにも日夜奮闘している精神科医たち。そして、私たち一人ひとりとて、きっと誰ひとり、精神的に問題を抱えていない人などいないと推測する私である。すべての人のために、共に考え、気遣っていきたいではないか。本誌のように、様々な立場の人がいろいろな意見をぶつけてきている本は、個人的な意見だけでできていないという意味でも、貴重である。専門誌的なものでありながら、きっと多くの人にとり、「読める」ものとなっているはずである。




Takapan
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