本

『聖書の世界』

ホンとの本

『聖書の世界』
白川義員
新潮社・とんぼの本
\1,400
2003.10

 1984年に刊行された本を増補改訂したもの。だが古さなど微塵もない。なにしろ被写体が、二千年から三千年といった歴史の跡を薫らせるものである。たかが20年がなんといおう。
 聖地という言葉があるが、どの宗教にもそれはあってよい。だが、ユダヤ教やイスラム教をも含む形で君臨する旧約聖書が描く聖地は、あまりにも現代的である。つまり、今もなお生きて働いている聖地である。決して過去の遺物ではない。争いがそこで絶えず、祈る人がおり、生活する人々がいる。
 だが、その聖書に記される土地の、なんと変わらぬことよ。
 紀行文あるいは随筆のような、著者の自由な言葉も、その写真の技術に勝るとも劣らぬ美しさで読む者に迫る。聖書の記述にときに沿い、また自分の体験を中心に描き、語られるので、学者的な文章の与える退屈さというものが、ない。
 いや、その写真にこそ目を向けよう。美しく、そして重みがある。一枚に、一人の人生どころか、歴史の中にあった国家、そこに息づいていた人々、いや、世界の歴史そのものがそこに居座っているほどの感覚が起こる。
 ただ、きれいだ、というだけなら簡単だが、現代では、その一枚の風景写真のために、多大な苦労と費用とが代償とされていることにも、気づきたいところである。なにしろ、中東の軍事用地としても一級の場所ばかりである。撮影のために山に向かえば検問され、ときに牢屋にぶちこまれる。命からがら逃げてゆくという事態もある。あるときには、やっと立っていられるというだけの牢獄に入れられ、排泄物にまみれた日々を強いられたともいう。ただ撮影をするために移動していただけで。
 どうしても許可が得られず、山の反対側から撮影するに留まったとなると、無念だろう。他国を経過してその地に入ったというのが気に入られず、また改めて翌年にその国から入り直して、といった苦労話もちりばめられている。さらに、変に観光地化しようとして中途半端な改築を勧めたエペソなどは、撮影していて腹が立つ、とも記されている。
 写真とは、そのリアリティさのもつ宿命として、なんと面倒で人間くさい仕事なのだろうと思う。綺麗事では済まされず、自分の命さえも保証されない。
 だが、それが聖書というものなのだ、という答えが、著者からは聞こえてきそうである。だから聖書なのだ、と。それは、私たちが命懸けの信仰をしているかどうかという、極めて当たり前の点について、問いかけてくる声と、重なる性質のものである。
 改訂される前の本も見たことがある。だが今読み返してみて、あの若いころの読後感とまるで違うように感じるのは、やはり年齢のせいなのだろうか。




Takapan
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