本

『科学と非科学』

ホンとの本

『科学と非科学』
中屋敷均
講談社現代新書2513
\800+
2019.2.

 科学は物事をはっきりさせ、明るみの中に照らしてくれるはずだ。そんな思い込みが私たちにはあるかもしれない。光と闇とがあれば光のほうにこそ、科学は似合う。だが本当にそうだろうか。そんな誘いかけから本書は始まる。これから語ることを象徴するような話の導入で、ちっとも科学的ではない。だから、これは文科系の人こそが味わうべき本であるのかもしれない。
 最初に、バーバラ・マクリントックという科学者が、あまりにも斬新な説を唱えたために最初は笑いものとされたのが、後に確証されていった経緯を描くことを序章として、人の夢や妄想から新しい概念が生まれることと、それを社会が容認していく構造を私たちにまず示す。これで科学がどう成立していくのかを読み取る基本としていくのだという。
 そして、デルフォイの信託の話がおもむろに始まる。ソクラテスの例で有名な信託であるが、何かに取り憑かれたような女性の言葉を、神官が翻訳するところに一つのヒントを見出す。信託が社会的に受け容れられ信頼されたというのには、この取り次ぎによる働きかけを知っておく必要があるというのである。そこに、たとえば、原発問題が現れる。原発は安全だというステートメントがずっと流されてきた末の、福島の事故であった。過去の安全神話は何であったのだろうか。
 科学にはこのように、説明が伴っている。これはどんなに画期的なのか。どんなふうに利用され、夢の生活が期待できるのか。ある意味でそれは純粋な科学そのものではない。科学と社会との媒介をなす、そこまで含めての科学観を、私たちはここから本書で旅することになる。
 生活体験に基づく実例が、ひじょうに楽しい。読者もまた実感できる。この話の次は野球盤の「消える魔球」である。そこをきっかけにして、法則は普遍的で繰り返し実証可能であるという理解が、科学にはあるかと思うし、近代思想はそれを支え、近代科学はそれを信じて発展してきた。だが、著者はカビのような微小なレベルでの生物学を研究領域としている。生物学において、完全に同じ環境というものは作り得ないものである。薬が効くかどうかについても、せいぜい確率的な言い方しかできないはずであり、一つひとつのユニークな生命を「科学的に」法則化することは、ありえないのである。
 いったい何が、科学について人に信頼させる力をもっているのだろうか。この権威はどこから来ているのだろうか。
 この世界は、分からないことに包まれている。凡そ科学者らしからぬ言動さえ見受けられるから、だから実は面白い。人間の願望や意志が、科学を生んでいく物語もいろいろ紹介され、闇やリスクと背中合わせの科学の営みを暴いていく様は、私はわくわくして読ませて戴いた。
 そこから著者は、大学のあり方を批判することへと走る。予算を取るために、いまの大学は科学研究のあり方から外れてしまったということのようだ。逆に言えば、これは政治が実に上手に科学を利用していることになるし、まさに政府の意図や政治的関係の中で、信託という説明に最高の権威を与えているということになる。その意味では、学究する科学者も、実際どうなのか、つまり政治やら何やらの意図に踊らされて利用されているのではないかという点を顧みる機会となるかもしれない。私たちはもっと生活感覚で、また自分が本当に願っていることはこれなのかという観点で、科学のもたらしたものを、またもたらそうとしているものを見つめる必要があるのだろう。
 物事の価値、それに対する自分とその関係、それは、一意的に定めてしまおうとする科学により支配されてしまうべきものではないと思われる。著者は最後に、自分の神秘的な体験を物語る。怪異現象物語で、語り方によっては稲川さんのネタになりそうだが、それを科学的に説明しようとすればできるということも踏まえながら、しかし福岡で体験したその出来事が、自分の人生観をつくり、また支えているのだという意味を自覚する。非科学的な説明ではあっても、そこには「物語る」力があり、人を生かすと捉えるのである。それが、世界を取り巻く闇の前で潰されずに、科学と非科学の境界を見つめる眼差しの中に立ち現れてくる光であって、人を生かすのだという哲学あるいは宗教観を以て、本書は結ばれる。
 私の見る風景と重なるところの多い、しかもそれをはっきりと教えてもらった気のする、爽快な一冊であった。




Takapan
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