『学校がウソくさい』
藤原和博
朝日新書909
\910+
2023.6.
リクルート社で働いていた経済畑の人であるが、教育委員会などを通して、中学校や高校の校長を務めたという著者。教育関係への発言も多いが、それも実行力を伴っているので、そこらの校長とは訳が違う。
そういうわけで、学校という場を舞台に、その教育のあり方が「ウソくさい」という点を、実態と共に指摘する新書である。
さて、私はどう関わってよいのか分からない。そうだそうだ、と太鼓持ちをするのもどうかと思うが、それは違う、と言えるような知識も経験も何もない。世間で話題に上る程度の、教師たちの噂も、マスコミが拡声するそのままを真に受けることもしないつもりだ。要するに、何の発言権もない、ということである。
サブタイトルには「新時代の学校改造ルール」とある。今の学校や教育制度の問題をただ指摘するのが目的ではない、ということだ。著者自身も校長という立場で、他の人にはできないような改革をしてきた。教育行政に直接訴えるようなこともした。旧来の慣習がどうであれ、政府の要求がどうであれ、教育に向けて教師が良い働きをしてほしいという目的のために、何をすべきかを知っているのだ。そして、実行してきたのだ。そのため、このようにするとよい、という建設的な考えを提言し続けている。これが、類書とはずいぶん違う。今のままではいけない、という警鐘だけなら、誰でも発することができる。しかし、ではどうすればよいのか、ということを、しかも一定の現場経験を踏まえて発言するということは、なかなか誰にでもできることではないわけだ。
建前で綺麗事を並べて済むわけでもない。しかし建前の報告をしておかねばならない制度がある。そのために教師は、特に本書が指摘することには、教頭は、忙殺される。現場の生徒に関われというお達しと共に、お偉方は、様々な報告書やアンケートの要請を送ってくる。それをこなすと、生徒と関わる暇などないのだ。それで、政府に書類を半減しろと訴えたという話が載っていた。すると、時の文科相がその意図を理解し、その方向に動いたというのである。適切なことは、誰かが言えば、気づくということもあるのだ。
本書は、学校の現場から入る。校則の奇妙さ、何かしら旧態依然とした現場、校長という立場の問題などを、ズバズバと指摘する。特に授業では、動画活用を繰り返し提言する。動画授業の活用で、教師の制約も減少し、良質の解説を、行きつ戻りつ視聴することができる。実際そういうことが可能なのかどうか、法的な方面からも検討済みであるから、画餅を掲げて自慢する素人とは訳が違う。
中盤からは、実際に学校の変革を行うにはどうすればよいか、多彩な角度から突いてくる。面白いのは、「学校」の定義、「先生」の定義を始めることである。もちろんそれは、著者による定義であり、ある種の信念のようなものである。しかし信念であれどうであれ、一旦定義すると、それを適切に活かすためにはどうすればよいか、道を拓くことができる。その道を提案することができる。これは、定義を曖昧にしているために、論者がそれぞれの信念で思い浮かべたことが最善だと信じてしまうため、いくら議論しても信念のぶつかり合いとなってしまい、何ら事態の改善には役に立たないという実情に対する、特効薬である。哲学的な議論も常にそうで、定義を曖昧にしているがために、そもそもコミュニケーションが取れていない中で言い合っているということを、人類は古代からやり続けてきたのである。
授業の運営についても、とにかく非常に具体的である。時には「走れメロス」を題材に、どういう授業するとよいのか、説明する。抽象的に述べても、何を想定しているのか分からないために、不毛の論議を生むことが必定である。こういうことだ、という示し方はいいことだ。
いったいこれから、子どもたちはどういう能力が必要になるのか。これはもう半世紀前の常識など役に立たない世界となっている。もちろん大人は模索している。だが、最善が決定しないまでも、出発しなければならないのが政治というものだ。また、教育というものだ。いまできることを先延ばしにしているわけにはゆかない。本書だと例えば「リテラシー」を少し詳しく説いている。情報だけではない、いろいろな分野でのリテラシーが必要になるという。具体的には、コミュニケーション・ロジカルシンキング・シミュレーション・ロールプレイ・プレゼンテーションという五つの点を具体的に語る。
その他にも、答えを選ぶ学力でなく、答えを割り出していく力を育む必要があることを強調し、「情報処理力」にも増して「情報編集力」なるものが教室で求められる必要がある、とも言う。これは分かる。ただ、そうすると受験制度がどうなるか、そこは課題となるだろう。答えのない問題を出して、それを念入りに採点するという方法は、現実性のないものである。欧米の大学の中には、とんでもない問題を出して、それへの対応力を問うという入試を実行するところもあるというが、日本でそこまで教育変革が可能名のだろう。また、制度が変えられるのだろうか。情報処理力で出世したお偉いさんたちが、それを破壊するような政策に舵を切ることがありうるのだろうか。
教育現場となると、科学的な思考を身に着けさせようとする場面もあれば、哲学的思考を養う機会も必要であろう。残念ながら、日本では後者が皆無と言ってよい。教育や授業というものが、十把一絡げに、このようにすればよい、という掛け声には私は乗らないタイプだが、この「哲学」の無さというどうしようもない欠陥が改められない限り、著者が提言する優れた方策も、基礎の無さの故に実行もできないし、実りはないだろう、と私は考えている。
最後に、タイトルにある「ウソくさい」という言葉。数えていないが、随所で登場する。あらゆる教育現場の建前について、教育行政について、この形容詞をつけて蹴散らす、というのが著者のパフォーマンスであるのだろう。そこまで言わなくていいかもしれない、と思う場面もあるのではないか、と疑いたくもなるけれども。
しかしこの「ウソくさい」とは、どういう意味だろう。あいにくその定義はなされていないようだ。いかにも尤もであるような顔をして、皆で分かったようなふりをして頷き合っているにも拘わらず、実のところ実情には合わないし実態を佳くするようなこともなく、みすみすダメになるようすを溜息でもつきながら眺めている様子、それを「ウソくさい」とでも言うのだろうか。常識的に正しいと皆が思いこんでいるようなことだが、それはなんとかしなければならないではないか、という切迫した思いと共に、「ウソくさい」と言っているのだろうか。「うさんくさい」という言葉はある。だが一般に「ウソくさい」という言葉は使われない。タイトルに用い、本文でもポイント毎に必ず登場する「ウソくさい」について、本書は無定義で用いている。「はじめに」の本文1行目から並ぶのだ。しかし、それがどういう意味をもつのか、どういう点を改めなければならないか、それは明確には表してくれていない。
自分が真実だ、という自信と共に、他の現実を「ウソくさい」と一蹴するのは、怪しい宗教である。本書はもちろんそんなつもりで言っているのではないだろう、とは思う。だが、あまりにも自信を以て現状の間違いを次々と指摘して、このようにすればよい、ということを、それなりの経験と知見とを踏まえて叫び続けている一冊である。よかったら、このタイトルの言葉の意義を、分かりやすく伝えては戴けないだろうか。
但し、学校でいじめをゼロにしよう、などという聞こえのよい掛け声が「ウソくさい」という著者の指摘については、私も声を合わせて叫びたいとは思っている。

た
か
ぱ
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ワ
イ
ド