本

『学校と社会』

ホンとの本

『学校と社会』
デューイ
宮原誠一訳
岩波文庫
\720+
2005.12

 第一刷が1957年。2005年は改版の最初である。言わずと知れた、教育の分野における開拓となった著作である。伝統的な学校教育に反旗を翻した名著であるが、いまとなっては、それが当たり前ではないのか、と言いたくなる部分も多い。デューイは哲学的な方面での活躍が基本であったが、シカゴ大学付属小学校において、いわば教育の実験ができた。そこで提言したこと、見いだしたことが、演説のようにここに記されている。
 実のところ、日本の戦後の教育にとり、大きな軸のようになっていたという。私たちはその教育を受けて育ってきた。それがこのデューイをどうのこうの、と言及しなければならないのは、難しいことである。
 どうやら、座学という基本がかつてあったらしい。となれば、日本はいまでもそれだ、と言われればそれまでである。だが、寺子屋の風景を想像すると、きっちり並んだ子どもたちが正座して静かに師の話を聞く、などというのが似合いそうだ。デューイによる、アメリカでも百年前は、そういうふうであったようなのだ。
 だが頭でっかちがよいのではない。知識を増やすことが教育なのだ、ということが当たり前に考えられていたようなのだが、実践と体験を重んじるということは、当時のアメリカにおいてでも、なかなかできなかったのだ。
 題になっている「学校と社会」というテーマは、最初の章で扱われており、社会の進歩のための教育が必要となることを力説する。子どもたちは工作や料理など、手仕事を学ぶ機会を学校で与えられなければならない。ちょっとした題材からでも、様々なことに思いを馳せ、また実際に製作するなどの授業が成り立つ。ある意味でいまでは普通に見えるかもしれないことなのだが、当時は激しくけしからんことだったようで、かつての教育に凝り固まった考えの大人に、デューイもずいぶん苦しめられたらしい。
 だが、教育の内容も、生活の中にあることとのつながりや関係があるからこそ、面白い。だから、実践ということが尊ばれるのである。
 また、それは子どもの想像力にも依る。子どもの想像を育まなければならない。このことを、抽象的にだが、このようにも言っている。「教養とは、想像力が、屈伸性において、範囲において、感入の度合において成長して、ついに個々人のいとなむ生活が自然の生活と社会の生活によって滲透されるにいたような、そのような想像力の成長のことをいうのである。」
 学校生活は、社会という大きな存在の一部として捉えなければならない。デューイの結論としては、こういうものであろう。
 細々とした点については、ところどころ光る言葉に出会う。「教育における「書物」ないし読書の地位」についてだが、「書物は経験の代用物としては有害なものであるが、経験を解釈し拡張するうえにおいてはこの上もなく重要なものである。」これが芸術についてだとどのようになるのか。「絵画と音楽、すなわち造形芸術と聴覚芸術は、学校でおこなわれるすべての作業の頂上であり、理想化であり、洗練・純化の極点である」などとも言っている。芸術を含め、技術的なことに関しても、最大限に尊重して、子どもたちをよりよく教育しようと計画している。現実に小学校を建てたという中で、子どもたちを見ているからこそ、自信を以て言えるのかもしれない。この教育の場面に、妙なコスパのような考えを含めてはならないのである。贅沢に浪費しよう。教育に関して、効率とかコストとかいう概念を用いて判定するのはやめよう。
 結局のところ、学校は生活と関係しなければならない。学校はそうして、社会の一部として、社会成員を形成するためにも優れた道となるであろう。
 本の終わりのほうでは、心理学について注目させる場面がある。デューイというのはそもそもプラグマティズムを代表する哲学者である。同じプラグマティズムのグループに、ジェームズという人がいるが、この人が心理学を用いて哲学を展開する。宗教的な方面でもよい著作があるが、どうもこの新たな教育の枠組みを形成する際に、心理学というものが期待れていたということではないか。このプラグマティズムは、象牙の塔のような哲学教授と学生のギルドのようなものとは反対のものを目指す。庶民が、その生活の中で出会うような問題を取り扱う。デューイの哲学はそのために、「普通人の哲学」とも言われることがあるそうだ。
 子どもは、想像力豊かである。この「想像とは、なにか実行不可能な教材についてのことがらではなくて、支配的な観念の影響力のもとにおいて教材をとりあつかうところの構成的方法である」などとも言っている。聖書によると、終末について老人は夢を見るという。信仰とは、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」のように考えられている。確信と言うことが、「支配的な観念」とつながるならば、クリスチャンは、見えないものを信仰する中で、私たちの日常の生活や教育などの営みにおいて、挑み、また力を尽くすことが必要なのではないだろうか。
 また、日本の教育政策においても、政治家の利益を含め、有権者もあまり関心を寄せずに、一部の人々のとりまとめによって、大きく改革されることがあるが、デューイの提言を気にすることで、何かしらそれに抵抗できるかもしれない。もちろん、デューイが正しいことを前提にするわけにはゆかない。だが、何でもひとつのモデルがあれば、比較がしやすいし、考察もしやすいだろう。そして新たなアイディアは、こうした旧いものへの眼差しの向こうからやってくるような気がしてならない。
 但し、本書は「子ども」や「学校」についてはそれなりに分析し、実情と問題をしめすことがあったが、「社会」とは何か、について論じる暇はなかった。この「社会」の定義次第によっては、説明も議論も通らない可能性がある。大きく構えた「学校と社会」という振りかざし方のうちの、目的性を以て持ち出された「社会」という言葉が指すものについても、プラグマティズムの立場からでもよいから、一定のまとまった意見があったらようかもしれない、と私は思っている。




Takapan
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