本

『砂糖の世界史』

ホンとの本

『砂糖の世界史』
川北稔
岩波ジュニア新書276
\650
1996.7.

 若い人たちにぜひ読んでほしい本。そういう企画の中で、複数の人が本書を挙げていた。これは気になる。読んだ時点で2025年。私はずいぶん長い間、この名著に気づいていなかったことになる。まことに本は、数多く、目立たない。
 西洋史の専門家ではあるが、通り一遍の歴史物語を綴ることを避けた。上っ面を撫でていくだけの歴史を知っても、そこに自分との関わりをもつことはできないのだ。ただ一つ、「砂糖」という対象を選ぶ。これなら私たちの日常生活に、ありふれている。あるいは当たり前過ぎて、認識の中に埋もれているものだ、とも言える。だが、その砂糖の歴史を繙くと、人間の考え方や行動、そしていまの自分との関係というものが、色濃く浮かび上がってくるものである。
 砂糖きびを「しがむ」という言葉から読者を掴む。そもそも砂糖はどうやって造られているのか。それは決して昔から当たり前のものではなかった。それは、人間が生命活動をする上で必須である「塩」とは対照的な存在であった。
 ヨーロッパに於いて大々的に生産されるようになった砂糖は、「奴隷貿易」と深いつながりがあったからである。
 政治家や実業家が、16世紀から19世紀にかけて、砂糖をどう生産するかということに、いわば社会的生命をかけてきた。ブラジルからカリブ海の地域に、プランテーションと呼ばれる大農園をつくる。そこで安価な労働力を用いて、砂糖きびの栽培を行った。注ぎ込まれたのは、アフリカから連れて来られた何千万人という黒人たち。もちろん身分は奴隷であり、強制労働を強いられていたのである。
 当初砂糖は、薬と見なされていた。これは、茶もそうである。砂糖は特に、カロリー源として注目を浴びたものであり、貴族の宴会に欠かせないものとなっていった。その白さが、ヨーロッパ人たちの倫理観にも合致した。当初はもちろん希少価値があったために、高価であるということが、ステイタスシンボルにもなっていたのである。
 本書が描く内容をここで記すことはできないが、そもそもそういう砂糖きびの由来を探り、それが「茶」と出会うことによって文化の華になってゆく歴史を、丁寧に辿ってゆく。しかし、紅茶に砂糖という組み合わせは、ずっと時代を降る。
 最初はコーヒーだった。コーヒーハウスと呼ばれるサロンが、ヨーロッパ文化のひとつの展開の場として華やぐのであった。だが、イギリスに於いて、政治的背景もあって、コーヒーの入手が厳しくなる。そこでイギリスではコーヒーハウスという文化形態が壊れてしまう。
 そもそも主食と副食という区別の概念がない、という指摘はいまでも驚くものだが、だからこそカロリー源としては砂糖が有力となり、イギリスでは紅茶に砂糖を入れるという文化が生まれてきたようである。それはもはや王侯貴族のものではなく、むしろ労働者こそがカロリーを必要とするものであるため、イギリス全体にその文化が拡がってゆく。
 ただ、時代はやがて、奴隷制度をなくすべきだという風が吹き始める。「砂糖のあるところ、奴隷あり」という常識が、変化を帯びねばならなくなる。砂糖もまた、砂糖きびのみならず、ビートから採取されることが分かり、生産形態も変わってくる。本書ではそれを「ビート」と称しているが、ちゃんとそれが「甜菜」であることを断っているから、読者は誤解をすることはないだろう。暑い地域に限らず生産されるのは、ヨーロッパにとっては都合がよかった。
 と同時に、それまで砂糖きびで経済を支えていた中南米の国々そのものは痛手を受ける。いわゆる「モノカルチャー」の不安定さ、危険性というものがここに明らかになる。一極集中の生産物に頼る国家経済は、それが傾きかけたとき、一挙に危機に陥るのである。この問題もまた、歴史の中で考えられるべき大きな問題である。読者はこうして、歴史の中で起こる問題の一つひとつを体験してゆく。
 その意味では、「ボストン茶会事件」などと歴史で学ぶことも、当然本書で触れられているが、あの1773年と記憶させられる事件だけで済むものではなかった。むしろその前から、事は進んでいたのである。アメリカに於けるフランスとの七年戦争で勝利したイギリスは、カナダやインドを配下に治めるが、それまでの度重なる戦争のせいもあり、戦費の負担を取り戻すために、植民地としてのアメリカに対して高い税をかける。イギリスの茶を当然のように用いるアメリカは、この仕打ちに立腹し、イギリス文化のスタイルから脱する動きを加速し、なにも高価な紅茶を買わさせる必要はない、近隣諸国で生産される安価なコーヒーを飲もう、とばかりに、紅茶文化を切捨て、コーヒーへと移ってしまうのである。
 著者は、「世界システム」論といわれる歴史の見方と、歴史人類学の方法を使って本書を書いた、と「あとがき」に記している。近代の世界をひとつながりのものとみなす見方と、歴史上の人びとのくらしの実態を、モノや慣習などをつうじてくわしく観察しようとする学とを用いた、というのである。
 そして「歴史を学ぶということは、年代や事件や人名をたくさん覚え込むことではありません。いま私たちの生きている世界が、どのようにしてこんにちのような姿になてきたのかを、身近なところから考えてみることなのです」と教える。
 そうだ。忘れていた。これは「岩波ジュニア新書」だったのだ。なんとレベルが高いのだろう。世界の政治や経済に対する見方を、そして自分の生活の中にあるモノに対する見方を、さらに世界中の人々とのつながりというものを、根柢から揺り動かすような力をもった本書を、長い間知らなかった自分が恥ずかしい。いまも決して、その輝きは失われていないと思う。




Takapan
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