本

『シャローム・ジャスティス』

ホンとの本

『シャローム・ジャスティス』
ペリー・B・ヨーダー
河野克也・上村泰子共訳
いのちのことば社
\2300+
2021.8.

 題が内容のすべてを表すようなものである。「シャローム」というのは旧約聖書の原語であると言ってよいヘブライ語で「平和・平安」、「ジャスティス」は英語の「正義」というところだろう。これらが一体化するものであるというのが、本書が一貫して主張するところである。それが、理論的概念的に展開するというのではなく、副題にある「聖書の救いと平和」とあるように、聖書の理解という意味で説かれるのが特徴であると言えるし、それはかなり保守的な理解であるとも言ってよいだろうと思う。
 著者はメノナイト派、つまり再洗礼派の旧約聖書学者である。かつて幼児洗礼を拒否したことから、迫害された歴史をもつグループであり、後にアーミッシュを生み出すことにもなった。社会正義を主張し、いまでは災害救助において特に名高い。著者自身は、フィリピンに入り、貧困や抑圧の中にある人々と連帯することを経験している。本書はこうした背景にあることを踏まえて読まねばならないだろうと思う。世界を傍観し、抽象的に述べているわけではないのだ。人々の血と苦しみ、飢えや理不尽な圧政などに対する生活と人生という位置から見ようと努めることが必要なのだ。だから、単純に暴力はすべて悪だ、などと決めてかかってはいけない。暴力に依らなければ生きられない事態もあるのだ。
 しかし難しいのは、では暴動も許されるのか、という辺りで、どこまでが抵抗でどこからが暴力となるのか、というラインを決めることである。聖書の中には、暴力が満ちあふれている。イエス自身は暴力に身を委ねたが、それはそれで特殊な立場や目的があった、という理解も可能である。それより旧約聖書の中の暴力と血なまぐささは、新約の徒としては目を背けたくなる場面も多々あると言わざるをえない。神自身が、人間を血祭りにあげるようなところもないわけではない。いったい神が正義であるのならば、そして神が平和をももたらすというのであれば、それは何であるのか。キリストの徒として私たちはそれにどう関与していくべきなのか。
 キリスト教と戦争というモチーフで近年力のこもった書物がいろいろ発行されている。単純に解決できない難しい問題だ。だからこそ、もう一度旧約聖書という原点に戻って、聖書から聞くという気持ちで腰を据えて検討する必要もあるのであろう。しかも、現在抑圧されている人々を救うためにできるだけ迅速に対処したいというハートを持ちながら。
 さて、本書の内容は、実は巻末の「訳者による解説」に、実に詳しく的確にまとめられている。先にこちらを読んでから本文を味わうという手もあったかもしれない。しかし、本文も難解なところはなく、殆ど著者の意図を誤解することなく読み終えることはできるだろうと思う。その後で、この解説により、読後感を一つのまとめとして確認する作業も悪くないだろうと思う。
 それは凡そこういうものである。とにかく、平和を目標とすべきである。非暴力はそのための手段出会って、目的ではない。この立場から、聖書の「平和」を表す「シャローム」の語を検討していくと、戦争がないという意味に限定されるものではなく、神の創造した本来の世界の姿を示すものだと分かってくる。それはギリシア哲学における正義概念で賄えるものではなく、抑圧され困窮した者ののために働く正義だといえ、著者はこれを「シャローム・ジャスティス」と名付けることにした。
 新約聖書のイエスは、余りに贖罪論に傾いて理解されていないか。律法を無視するようなことをイエスはしなかった。神の恵みに応答すべきものを教える、ひとつの道としても理解することを提言する。こうして提示した道を、実際の旧約聖書のイスラエルの歩みの中で確認する作業を呈し、それがイエス・キリストにおいて改めて示され、さらにパウロにも引き継がれるのだと著者は綴ってゆく。そして教会はいまも、このバトンを受けているのだと捉える。こうして、解放のために戦闘的であることを擁護する。暴力であるかないかで平和を判断するものではない、という考え方なのである。まさに、現場で危険の中にある人々のために、何ができるかということであり、そこで命を懸けている人に対して、外野からとやかく言うものではないということでもあるだろうか。
 「どうあるべきか」に対してより多くを取り組むものであって、そこにどのように到達するかにはさほど重きを置かない。著者は最初にそのように宣言していた。そして、暴雨力を批判することばかりに関わってきたことへの反省と、そうでなくて平和づくりにむしろ目を向け、携わるべきだという考えを提示している。
 1987年の発行の本がようやく2021年になって邦訳された。生ぬるい対応であり、古くさいものの翻訳が何の力になるのか、訳者も問うている。だが、このかつての提唱が、この世界で実現されていないということを重く捉えるべきであろう。イエス・キリストから二千年を経てもなお、平和を人間は実現していない。神のもたらすシャローム・ジャスティスをまだ目の当たりにしているわけではない。人間は、本当に平和を求めているのだろうか、と懐疑的になるのもやむを得ないような有様である。しかし、問うこと、求めること、そして気づくことで、何かが変わってくることを期待したいものである。なにしろ、この正義に反することをしているのは、紛れもなく人間なのであって、地球外生命体によるのではないのだから。
 その意味でもやはり、弁えなければならない。この正義を実現しようと立ち上がる自分そのものが、実のところ平和の実現を妨げているのではないか、との視点を忘れてはならないのだ。戦争は、自分こそ正義だと主張して譲れなくなるからこそ、起こすものなのである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります