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『哲学は何ではないのか――差異のエチカ』

ホンとの本

『哲学は何ではないのか――差異のエチカ』
江川隆男
ちくま新書1881
\1200+
2025.10.

 専門的な著作は幾らもあるが、「新書」としては初めて出版するのだという。できたのは360頁の厚さであった。最近はこのくらいのものもちらほら出てきたとはいえ、本来の新書の2倍くらいの量がある。かなり本格的である。
 かといって、新書らしく、この1冊で根本的に伝えたいことは、ひとつだけだ、とも言える。どれだけ緻密に、しかもボリュームを伴ってぶつけてきたことか知れない。
 哲学と倫理学を中心とし、しかもスピノザとドゥルーズを主軸としている著者である。本書は正にそのど真ん中への投球である。だが、この本のタイトルからして、力が入っている。それをここに明言してしまうと、読者の楽しみを奪うことになってしまうかもしれない。ただ、物事は、「裏を考える」というふうに、子どもたちに教えている。男子の人数を求めたいときには、女子に目を向ける、などという方向性である。「哲学は何ではないのか」というのは、「哲学とは何か」という問いの反対である。そして「差異」と反対については、「同一性」というふうに捉えてみようか。「エチカ」は、反対というよりも、スピノザを舞台としていることにすべきであろう。つまり、スピノザをペースにして、「哲学徒は同一性ではないのではないか」という方向性を以て、本書を開いて読み進めてみるという姿勢で一度構えてみよう。
 こういうわけで、序章は、「これまでとは異なる哲学へ」というタイトルで始まる。すべての哲学はプラトンへの脚注である、という大胆な捉え方を世に知らしめたのはホワイトヘッドであった。本書は、西洋哲学の従来の変遷を、同じひとつの原理に基づくひとつの世界だとして捉え、それだけに囚われていてはならない、という志を読者にぶつけるものであった。
 このようなテーマで、長丁場の議論をもつ本は、近年しばしば、卑近な例や、特別な物語をも含んだ実例を交え、親しみやすく、できるだけ具体的な叙述構成を入れてくる傾向がある。だが、本書には遊びがない。読者に媚びることもなく、読者はがっぷり四つで最後まで走り抜けるしかないのだ。
 先ず「哲学は何ではないのか」、この問題提起に始まり、続く章の名だけを辿るとするなら、「比較する思考の問題点」「前-哲学的な思考様式」「ニヒリズムという定め」「差異の肯定に向かって」「抜け出すべき地平――<実体/関係/力>を問う」「人間の能力と感覚」「内在性の諸問題」そして、結論として「差異のエチカ」という、サブタイトルを以て終わることになる。
 つまり「差異の哲学」という世界をも案内するものであるが、ここに「多様性」という概念が出入りする。それはここ最近の世間での合言葉である。何か今風の正義をガードに用いようとすると、「多様性」と口にすればなんとかなるような風潮である。これがビジネス界では、「ダイバーシティ」と呼び換えると、よけいに格好がつくということになる。しかし、それは二千数百年を数える西洋の哲学の歴史からはすんなりつながらなかった、これまでとは異なる哲学につながるものだったのである。だから、近代思想の常識のようなフィールドから、口先だけでただ「多様性」などと言ったところで、問題の混迷に迷い込むだけのようなものなのだ。
 多様なものは、差異そのものとして理解するものなのであり、差異を肯定することが必要なのである。
 スピノザがフィールドになっていると触れたが、思えばスピノザの思想は、西洋哲学の中にすんなり入ることができないものであった。デカルトと対峙するようなところがあったが、デカルトはその後の西洋近代哲学の祖とされ、近代思想の根柢に置かれることとなった。ところがスピノザは、その生涯も地味であったし、著作すらまともに出ることがなかったし、その思想に追従するメジャーな人物は現れる様子がなかった。
 その近代思想が行き詰まり、幾つかの方向で解決が図られたが、必ずしもこれぞというもので安定しつつ乗り越えることはできなかった。それが、ここ最近になって特に、スピノザの復権が提唱されている。だが、どのスピノザ論も、帯に短したすきに長しといったふうで、ひとつにはスッと理解できたかと思うと、何か判然としない面が残るなど、まだ私にも十分肯けるものとはなり得なかった。
 大学で、スピノザの「エチカ」を原典も交えて味わったことはある。どうせ短い部分しかそれでは読めないので、日本語訳をも用いて語り合うゼミに参加していたのだが、あれこ議論し合っても、消化不良であるには違いなかった。結局、デカルト以来の正統派の西洋哲学の路線でスピノザを読もうとしていたに違いなかったからである。だが、デカルトとスピノザのいた時代には、どちらがどうなるか知れないほどに別々の世界を築いていたわけであって、その後の歴史がスピノザをすっかり隠してしまったという事情なのである。
 そんな私は、いまだにやはり近代思想の虜になっているわけで、スピノザが分かったという感覚は依然として持ち合わせていない。ただ、本書のように、「差異」というただひとつのキーワードから、しかもデカルトからカントなどへと走る流れを完全に敵に回しての叙述で貫く説明があると、少なくともスピノザ哲学の位置づけだけは、確かにできたのではないか、という気がする。
 その一つの鍵を、私は次の言葉に見た。それは、「無神論者の神」(p339)である。スピノザの<神-自然>に基づく言葉であるが、「神」概念をスピノザが用いたのと関係して、現代人は、「無神論」を本質としながらも、実のところ「神」という概念から離れられないでいるのではないか、と感じたのである。
 著者の結論は、ここで何かに留まったのではないだろう。何かを主張しようとしたのでもなければ、何かを説明して満足している様子もない。ただ、巻末の言葉は、私たちに対して何かを訴えかけてくるはずである。「哲学とは、つねに既存の意味を変形し、価値を転換することに配慮する思考形式のことである。」




Takapan
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