本

『最強最後の学習法』

ホンとの本

『最強最後の学習法』
後藤武士
宝島社
\1365
2005.1

 毎日中学生新聞でアドバイスをしていた先生だそうだ。そして、この本自体は、その多くがすでに一度出版されていたものを、手直ししてまた世に問うたのだという。
 かなり自信のある語り方で、それなりの成果も上げてきている著者のようだ。
 よく世間で言われる学習法とは逆とも見えるようなやり方を推奨しているが、それもまた、いろいろ実際に子どもたちとふれ合い子どもたちの成長を見ている現場からすれば、効果のあったやり方は、当然自信がつくというものだろう。
 答えを先に見てもよいとか、ノートはこのように書けとか、私から見れば、さして真新しいことが書いてあるわけではないが、保護者から見れば、奇を衒うようなやり方に見えるのかもしれない。
 提案自体は、悪くない。
 が、少々気になることがある。それは、これらの方法が、かなり個人的な信念で貫かれ、そこにしか根拠がないということである。可能ならば、個人的な教育信念を述べる部分と、学習法として実践したい内容の部分とを、峻別して記してほしかった。それが、こうやればいい、という述べ方と、自分の教育思想とをない交ぜに記すものだから、それは悪く言えば、カリスマ的効能をもたせようとするやり方であり、人をどこか洗脳的に巻き込む方法になっているということになる。読者が主体的に、その方法を選び取るとか改善して用いるとかいう余地を残すのでなく、「これしかない」式に、追い込む形になるのである。いや、この形をやっているからこそ、世に有名になり、また、センセーショナルな紹介のされ方をするというからくりがあるのかもしれない。宣伝が上手だということであろうが、それは逆に言えば、文章を自分の立場から読めるようになる教育とは逆の効果をもたらすことになりかねない。
 もちろん、基本的な読解能力を会得しなければ、その先の自由な主体的な考えもない、という著者の考えは理解するし、この本が、その基礎的な部分をなんとしてでも身につけるためのトレーニングであることも、承知している。だが、それが皮肉なことに、その先の歩みを阻害するような方法になっているかもしれない、と言っているのである。
 自分の思想を述べながら、自分のやり方を押しつけていくというのは、ある意味で書くほうにはやりやすい。この本も、ひたすら思いつくことを原稿として打ち続け、それを流し込めばできるという本の作り方になっている。近年流行りの、見開き一項目の、プレゼンテーション形式ではなく、読み進むものを自分の世界にどっぷり染め上げていこうとするタイプになっている。そして、このような原稿の作り方は、かなり容易である。
 著者の自信満々の語り口は、その公立私立の学校の選び方のあたりで、違和感を抱かせるようになっている。基礎的な読解を人に教える立場の人が、いろいろな考えやいろいろな人、学校の存在を認めるのでなく、十把一絡げに画一的に評価して投げ出すということをやっており、それを正当化しているのである。しかし、そのからくりに気づかない読者は、もう著者を教祖のように信奉していき、その口から発される言葉をすべて信仰していくことになるだろう。
 その意味では、たしかに「最強」で「最後」の方法となる。読者は、これを宗教的に崇めないように、注意されたい。ひとつひとつの学習テクニックには、有効な部分が多いのであるから、主体的に選択して、ご自分の、あるいはお子さまの、学習に役立てるとよいのは、確かである。




Takapan
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