本

『説教 最後の晩餐』

ホンとの本

『説教 最後の晩餐』
吉村和雄
キリスト新聞社
\1600+
2023.2.

 著者の説教を聞く機会があった。その礼拝当日には本書は間に合わなかったが、その後から読むことができた。説教は、やわらかな語りで、滑らかに進んだ。難解な言葉を並べることがなく、聖書にたとえなじみが薄くても、聞き取れる流れを作っていた。それはまた、聖書解釈に走らず、ひとの生き方としてどう考えるか、ということを真正面から捉え、それを、いい塩梅に聖書を背景として語るという、たいへん好感のもてる話し方であったと思った。
 それで、届いた本書であるが、説教集である。本の形式としては、同様のものが、たとえばすでに平野克己牧師により、十字架をテーマに取り上げた説教集がキリスト新聞社から出されている。その牧師と親しいということで、同様の企画で、最後の晩餐をテーマに本書が生まれた、という事情があるらしい。本の装丁も、雰囲気がとても似ている。発行書店としても、ひとつのシリーズのように見立てているのだと思う。
 この二人の牧師は、加藤常昭先生が主宰であった「説教塾」のメンバーである。加藤先生が召された後、「説教塾」の中心を、このお二人が支えている。平野牧師の十字架のメッセージも、語り口調は穏やかであった。但し、その中に鋭い剃刀を隠しもっており、受ける者の心に差し込み切りつける力は、言葉の中に命があったためだろうと思われる。本書はさらに穏やかに見える。聖書解釈のような問題はわざわざ取り上げることはなく、聖書の言葉が、聞く者の魂にぐいぐいと迫ってくる力は、表面上の優しさとはずいぶん違うパワーを見せつけることとなった。
 「自分の中に何かがあるのではない。むしろ自分の中には何もないのです。そういう自分を、主イエスはなおも御自分の弟子として愛してくださる。その主イエスの中にある愛と真実を信じる。これが信仰です。」(p108)
 「主イエスは、あなたのために死んでくださったのです、と告げ知らせる。だからあなたも生きられる。どんなに自分がだめだと思っても、希望がないと思っても、でもあなたは生きられる。主イエスが、あなたのために死んでくださったから。あなたも生きられる。そのことを告げるのだ、というのです。」(p145)
 誰もが心当たりのあるような、そんな世界を突いてくる。心をくすぐる、というようなレベルではない。こうした畳みかけるような迫り方をされると、実際の説教では、きっとずんずんと神の力が魂に食い込んでくるのではないかと思われる。
 取り上げられた説教には、それぞれテーマが在る。「エルサレム入城」「洗足」「聖晩餐」「だれがいちばん偉いのか」「ゲッセマネの園」「ペトロの否認」「十字架」そして「パウロの手紙」である。殆どが福音書から取り上げられているのであるが、最後のパウロ書簡では、コリント書の聖餐式で読まれる箇所である。教会という場を意識した、教会に於ける晩餐の意味を説き明かす内容もあり、締め括るのにも相応しいと感じられた。
 それぞれが恵みの説教であった。私はこれらを、一日ひとつと決めて読んだ。読み急いで、慌ただしく駆け抜けてゆくべき説教ではない。一日にひとつだけ受け止め、それを思い巡らす一日を過ごすがよいと思う。すべて説教集は、そのように読むべきである。そう私は信じて止まない。
 ところで、最後に「あとがき」が備えられているのだが、これがとてもユニークであった。説教を語るのに、原稿をつくるべきかどうか、という方法のことが、そしてほぼそれだけが語られていた。もちろんこれらは、実際に礼拝説教で語られたものであるが、それをそのまま文字にした訳ではない。また、原稿をそのまま載せたわけではない。スタッフの努力により、語られた説教が、読まれる説教へと変貌する体験を、著者は驚きの眼差しで明かしている。
 結局、説教と原稿の関係はどうなったのか。著者は、「一通り語ってみて、それを書き留めると、それが原稿になります」と言う。つまり「原稿を書くことが、説教を作ることです」というのだ。「原稿は最初の説教だ、と言ってもいいかもしれません」とまとめているが、少し分かりにくいかもしれない。つまり、「書きながら、この言葉が聴き手の中にどういう応答を引き起こすかを想像します」というのであり、「聴き手と対話をしながら、原稿を書くことができます」と説明している。原稿を文章で書く。それをさあ礼拝で語るぞ。そういうわけではないのである。すでに書くということは、目の前に聴く人々がいることを前提にして、初めて書くことができるのであって、一度すでに語ったものが、そこに文字になってゆく、というのである。
 当然、原稿棒読みというようなこともありえない。説教はライブである。だから原稿は、「芝居の台本のようなものだ」とも説く。アドリブもあるが、何より表情や口調などの一つひとつの動作が、その舞台をつくりあげる。その場の空気があってこそ、そして何よりもそれを聴く人々がいて初めて、その説教が成り立つわけである。それを私は、「霊の流れ」が礼拝にはある、と表現するのが常なのだが、神の言葉が生きており、それが命を吹き込むものであるのならば、ライブ会場のもつ力というものと、考え方でつながるものがあるのも確かである。正に、それは「ライブ」だということである。神の言葉は、ひとを生かす出来事として結実するのである。
 説教をつくるのは、語り手だけではない。聴き手と共に、神の出来事を生み出すのである。




Takapan
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