本

『美しい朝に もう愛の唄なんて詠えない〈第2楽章〉』

ホンとの本

『美しい朝に もう愛の唄なんて詠えない〈第2楽章〉』
さだまさし
ダイヤモンド社
\1800
2009.6

 さだまさしが吠えている。雑誌に連載されている、コラムを集めた本である。その都度時事的な話題で、自分の信念や考え方を提示しつつ、世の中のことに対して怒りを表している。
 純粋なのだ、とも思う。この年齢で、これだけ正論をぶつけてくることができるというのも、あまりないのかもしれない。大抵の人は、もっと「おとな」になっている。さだまさしは、その点、おとなになりきれていない。
 それは、決して悪いことではない。幼稚なわけでもない。世の中そういうものだ、と訳知り顔で自分も悪い流れの中にどっぷり浸かって、それでよいのだと悟ったような顔をするよりは、ずっと適切な生き方なのだと思う。自分で考え、自分の方向を考える。流されるのを嫌い、自分からの地平を意識している。
 私も、いわばそういうタイプだ。だから、吠えているのもよく分かるし、ある意味で私も同様な意見をもっている。だから、おそらく私もこのさだまさしのように見えているのだろう。いや、私などさだまさしのように注目されるわけでもないし、社会的な影響などまるでない。彼の場合は、こうした意見の他に、歌や小説で人々を感動させているのだから、比較対照することができるような立場ではない。吠えているというだけで、同じにされては彼もたまるまい。
 先に『アントキノイノチ』という小説を読んで良いものを覚えたのであるが、その執筆時期とこの随筆とが重なっているので、小説の動機というものもよく分かった。そして、無差別にいのちを奪う身勝手さに対する、どこかやるせない、しかし絶対に許さないという強い憤りが、ひしひしと伝わってきた。
 まったく、その怒りは正当であり、その通りだと思う。
 だが、本当に「あんたは自分勝手だ」というだけで、終わるものなのだろうか。確かに、さだまさし自身は、無差別殺人をすることはないであろう。だが、無差別かどうかは別として、彼自身、そうした犯人に対して「殺してやりたい」「勝手に死ねばいい」という思いが少しでも心に浮かんだとすれば、厳しい見方をするならば、同じように人を殺していることにもなる。いや、そのように人のことを決めつけるのはよくない。私だったら、それがある。私も同様に、身勝手なことをしでかした者に対する憤りをもつ。素直にもつ。だがその瞬間に、自分がまさにその者と同じ存在であることを痛感し、戦く。
 日本の情緒や風情をこよなく愛する著者である。言葉について、古きよきものを人々に知らせてくれた功績は大きい。こうしてその心の本音の部分が明らかにされている文章をいくつも見ていると、それがやはり強い日本伝統の精神に貫かれていることが見えてくる。國學院高校で学んだことが彼に強い影響を与えていることがよく分かる。それは、彼が元々有していたものであるのか、それとも高校で養われたものであるのかは不明である。ただ、神道的な思想が強く支配しているのはよく分かる。
 その上で、彼の正義感が動き出す。そのとき、私は強く感じる。
 あまりにも正義すぎるのだ。政治家の批判も強い。気持ちは私にも分かる。だが、政治は政治で、決して報道されない部分でこの国を支え、国のために取引を行っている。たんに報道が指摘するようなレベルで政治が動いているわけではないのだ。しかし、著者は報道レベルの政治にあまりにも囚われているように見える。もっと様々な政治的事情もあること、政治家は全体を見ながらまことに善処していることを排除して、著者はひたすら自分の視野における正義をぶつける。だが、政治家は、世の中に五万とある正義のうち、できるだけ多くの正義を実現しようと努めている人々である。著者の正義が活かされないといって、政治家が腐っているわけではない。政治家もひとつの正義なのだ。いや、この現代社会の大きな正義というものを実現しているのだ。
 よい視点はたくさんある。「心の闇」などという言葉で簡単に片づけてはならないこと、日頃信号を守らない親が子どもを危険にさらす教育をしてしまっていること、こうした視点は、私も本当にその通りだと思う。いや、いつも私が口にしていることそのものである。たくさんのよい提案がある。その景色を私たちは受け止めたい。そうなんだ、と気づいて、そこから考えることを始め、あるいは行動に移したい。なにしろ、世の中に影響を与えることでは、実に大きな力をもっている人なのだ。自分の言うことが正義だ、と強く言いすぎない程度に、よい視点を提供していってもらいたいものだと思う。




Takapan
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