本

『差別の日本史』

ホンとの本

『差別の日本史』
塩見鮮一郎
河出書房新社
\2150+
2022.1.

 著者は、河出書房新社から出て作家となり、日本史のいろいろな時代について調べ、とくに貧民などのことを本に描いているようである。その中で、「差別」の問題に特化してまとめたのが本書である。
 私も知らない言葉がたくさんあった。確かに、歴史の中である時期に使われていたようなものについては、そうした文献を知ることなしには見聞がないだろう。恥ずかしながら、冒頭に掲げられていた「ほかい人」は知らなかった。但し、その別名「乞食」はよく分かる。子どものころには、普通にそれが子どもたちの共通理解の中にあった。尤も、「ほかい人」は単なる乞食とは違うような立場を指していたこともあるようだから、こうしたことは歴史を深く読み解かないと、なかなか思い切った発言はできないものであろう。これらの人は、仏教のイデオロギーの中でこそ存在したのだ、ということが、「巻頭エッセー」に書かれている。天皇のために死ぬことの光栄を思う鹿の話から、その捨身の思想が仏教の中のひとつの話として広がっていたことなどに触れるのだ。
 さて、本書であるが、40の質問が出されたときに、著者がどう答えたか、それがひたすら並んでいるだけのものである。一つひとつが歴史エッセーとなっており、すべてが「差別」に関わるものとなっている。
 それらをすべて挙げるわけにはゆかないが、「奴婢」「五色の賤」「夙」「隼人」「蝦夷」など、非常に古い時代からある差別の実情が明かされる。何気なく歴史のテストで書いていたような「奴婢」も、いまにして思えばどちらも「女へん」である。染みついた差別意識というものに愕然とする。
 鎌倉からは「武士」とはそもそもどうだったのかというところから入り、とくに下層の人々に広まった念仏系の仏教のことも問われる。
 江戸時代はかなり多くの話題が現れる。もはや歴史の教科書でも出てこないような「穢多・非人」ということが徹底して取り上げられる。下手をすると、また余計な火種をつくりかねないような話である。寝た子を起こすな、といった声もどこかにあるが、恐らくそうではない。知らないからこそ、怖いのだ。知ることは大切なのだ。「穢多」と「非人」の違いも、著者にかかれば明白であり、多くのことを語ってくれる。それ以外でも「足軽」の存在や「郷士」「中間・小者」といったものに触れ、さらに土地をもたない「水呑百姓」や「漂泊の人」「芸能」という社会構造に関わる差別世界をも浮き彫りにする。浄土真宗が「差別戒名」を出したことについても問われるのが手厳しい。
 しかし、おそらくいまにつながる差別としては、明治になってからのものが大きいのではないだろうか。「解放令」は大久保利通の英断により出されたというが、その後「新平民」という苦肉の呼称が、差別を温存することになった事情も説明される。かつて被差別部落の人々は、土地があり税も免除されていたのだ。しかし、差別の身分が建前上解消されたとき、今度は土地を取られたり税を求められたりした。すると、それが払えないとなり、よけいに貧しくなった、という事態が続出したのだそうである。そうした人々を区別するためにも、何かしら呼び名が必要だったために「新平民」という呼び名が現れたというが、これではただ表現を変えただけで、構造は何も変わっていないことになるだろう。
 その「部落差別」の背景から、そもそもの「女性」への差別もこの近代社会の中で如実になる。「いじめ」は差別である、ときっぱり言う著者の答えは、心強かった。なかなか「いじめ」を抑えられないいまの時代、それをはっきり「差別」問題と重ねることは、一つの意義ある試みではないかと私も感じた。
 その他「LGBT」はもちろん、「アイヌ民族」のこと、「在日コリアン」や「韓国人」の問題、そして日本ではそう強く意識されていないかもしれないが、「ユダヤ人」や「ジプシー」のことも取り出される。
 さらにいま、被差別部落の名簿が出回っている現実があり、なかなかそれはなくなるものではないようだ。それを感情で論ずるのではなく、歴史を踏まえて、冷静に答えてくれるのが、本書のやはりよいところであろう。また、自身の辛い体験が書かれていることもあった。
 最後、40番目の質問は「人が生きている以上、差別はなくならないのですか」は、究極の問いであったかもしれない。著者は開口一番「そんなことはありません」と強く宣言してくれた。これだけ日本史の中で「差別」について事細かく調べてきた人だったら、人間はずっと同じようになるしかないのだ、という歴史観をもつのかと思っていたのに、どうやら違った。それどころか、「差別」というのは、近年だけに通用する「便利な道具」なのです、とまで言っている。そのことについて、フランス革命の背景の話を始め、そこにキリスト教の平等思想があったのではないかと指摘する。これは、日本史の中での「差別」の歴史には基本的に登場しなかったものである。神と人との関係を根柢に置くからだ。しかし、その思想も、もう200年前のものでしかないと著者は言う。美しい理念は、歴史の中に度々注目されるが、本当に差別されているような人々、貧民や下層とされる人々のためになったのだろうか。
 著者は、少し文学的に美しい文章を書くことのできる人かもしれない。大切な点をにおわせることで、はっきりと書かない場合もあるし、運ぶ論理がうまく呑み込めないこともあった。私の読み方が下手であるのと、歴史の知識がないからであろう、とは思う。だが、ほのめかすだけで終わらずに、明確に、論理的に何々は何だ、とはっきり示すことを略さないでくれたら、と思う。歴史用語は、万人が知るところではないものも多く出てくるけれども、その説明自体があまりに歴史学的で、よく知らないままに読み進まねばならないことが幾度かあったのである。やはり、歴史に詳しい人でなければ、この本は十分納得して読めないのかもしれない。でも、それは少しばかりもったいない。
 わずか3cm四方くらいの枠の中で、穢多と非人の簡単な構造が記されている。それほど図示することが必要ではなかったような気がするが、これのほかに、本書には一切図も写真も、ない。価格としても決して安くない本なのであるから、何らかの歴史的史料の写真がいくらかでもあれば、理解を助けたのではないかと思われる。もう少し、歴史に疎い人々をも巻き込んで、日本史における「差別」の事実を訴えてもらいたかった。「差別」についてのイデオロギーを訴えることがないように見えるのは、悪いことではないとしても、むしろ一定の主張の中で、生き生きと歴史を語ってくれてもよかったのではないか、という気もしている。




Takapan
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