本

『差別感情の哲学』

ホンとの本

『差別感情の哲学』
中島義道
講談社
\1500+
2009.5.

 怖い本だった。著者についての紹介は省こう。カント哲学やその時間論や悪についての考察などに詳しいが、哲学一般の実行者としても知られている。歯に衣着せぬ発言は、本の中で際立っている。それが、「差別」について、とくにその心理または感情について、とことん暴いていこうと封を切ったのだ。人間の心にはとことん拭いきれない差別の源があるのである。
 差別はいけない、と口では言う。けれども、その口の持ち主が実のところ差別を作り出している。自分が善人にでもなったかのように言明することで、自分を特別な存在だと際立たせてしまう、しかもそのことを狡く計算高くやっているという醜さ。そのような人間の性をとことん暴こうとする本書の視点は、私はその通りだと受け止めようとしているし、実際そう私は考えていたというだけのことである。
 人間の善意とか、誠実さなどを吹き飛ばすようなこうした言葉の攻撃が、本書を貫いている。書き下ろしの一冊だというから、読者の反応を連載の中で感じるなどということなく、自分の中の本音を一気に出していくことができたと思う故、このテーマにはその方法がよかったのではないかとも思う。そういうことで、読んでいて嫌な感情をもつ読者は多いことだろうが、これに目を瞑ることそのものが、差別をまた作り出す原因ともなるという、執拗な指摘があるから、これを否定したいならば、とことん付き合わなければならないであろう。
 私たちの心の中には、悪意が住んでいる。ここから著者は動こうとしない。それを単なる思いつきや小手先の理屈で奇を衒って言うようなことではなく、様々な事例や思想考察をも持ちこんで、そして何よりも自分自身の心の中を取り上げることによって、分析し、提示する。果たしてそれは、著者だけが持っている悪意なのであろうか。読者がそのように一蹴するとき、まさに読者は著者の提示を実践することとなってしまう。そこにこの指摘の怖さがある。
 天真爛漫に、差別感情を撤廃しましょうと唱えることでもないし、どうせ差別はなくならないと諦めて呟くことでもない、自らの中に、そもそも人間の中に巣くう差別感情をとことん見つめようとする姿勢。これを哲学では「批判」と呼ぶ。まさにカント学者の使う語でもあるが、それは非難ではなく、適切に検討し捉えるということである。自己欺瞞をしないということである。
 多くの事例が挙げられる。耳が痛いというよりも、心に突き刺さることである。自分の傲慢さというものに気づくように促される。私たちは善人ぶり、高みからひとを見下ろしている。これをとにかく見据えることが必要なのである。だのにそれができていない。要するに私たちは、「罪の意識がない」のである。しかしそのような罪は、人が人である限り逃れられないものだということを、一冊を通じて著者はとことん挙げてくる。アブラハムであれ、誠実というものであれ、免罪符にはならないということを私たちの目の前に並べていくのである。
 私も甘さはあるが、これを思い知らされたのであった。だから、神に出会ったのである。自分の中にあるこのようなものを突きつけられたからこそ、頭を思い切り殴られ、一度死んだのである。本書は、キリスト教の罪や救いということを扱った本ではないが、クリスチャンならばきっと全部、言っていることは分かるだろうと思う。分からないといけないと思う。そうでもしなければ、イエス・キリストが何を自分にしたのかということを、体験するはずがないのだ、というくらいにまで、言いたい。
 著者の指摘がすべて賛同を得るかどうかは分からない。むしろ差別をしている側、涼しい顔で善人ぶっている市民的立場を専ら扱っているようなふうにも見え、被差別部落にいるような側の人のためにはどこまで分析ができているか分からないような気もする。しかしその点はまた誰かがこの著者の鋭い指摘を受けて補っていけばよいことであろう。
 終わりのほうで、いまちょうど世間を賑わしていた事件があったせいもあり、私がこの本を読むのに涙を禁じ得ないところもありました。我が子を不注意で殺してしまった親、あるいは我が子の暴力に苦しんだ末自ら手をかけて殺した親、しかしそのために自殺するようなことを選ばず、非難や苦悩を引き受けながらその後生きていくその人の中には、この差別する側の傲慢さとは違う、(誤解をすべきではないが)偉大なもの、尊厳のようなものがあると言わざるをえないとするところであった。
 殺人は是か非かというような議論は起こる。傍から見ればそうなのであろう。しかしそれを一生背負っていく決断をした人の心をとやかく言うことができるような立場に私たち傍観者はいるのかどうか。そのように追い込んだのが私たち一般市民ではないのかどうか。手をかけた当人だけが殺したかのように、事の是非を言い合う私たちが、最も悪質な者ではないのか、私たち一人ひとりが問われている声を、聴き取りたいとしか、いまは言えないと思ったのだった。
 そもそも、我が子を自ら手にかけたという点では、父なる神がまさにそれだったのではないか、気づきたい。それにより救われたと告白する私たちは、いったい何者なのだろうか。




Takapan
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