本

『龍の耳を君に』

ホンとの本

『龍の耳を君に』
丸山正樹
創元推理文庫
\780+
2020.6.

 七年前の『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』からの続編と見られる。手話通訳士を主人公とした、事件物である。筆者はろう者ではないし、特別に手話を生業としているわけでもない。しかし関心をもったその手話の世界に惹きこまれ、手話を背景とした物語の世界を創り出した。ろう者への取材を重ね、ろうの家族の中でひとりコーダとして日本手話を操る操る荒井という魅力ある人物を描き出した。
 私生活の上での背景、荒井の生き方が事件と関わる。ろう者の関わる事件で、法廷通訳士として活躍するのだ。しかし同棲相手が警察官。微妙な立場である。
 推理物だともいえるので、ストーリーについても詳しくはご紹介できないものとするが、前半のろう者による犯罪について関わる中で、ろう者の社会とその考え方や立場がよく表現されており、聴者の知らない世界が紹介されることになる。手話の真似事をすることで分かったような気持ちになることから一歩抜け出したいと思う、ろう世界に関心をお持ちの方は、この小説は非常によい学びになる。ろう者の日常の生活についてそれほど教えてくれるものではないが、今回はろう者のものの見方やそのコミュニティについての姿勢などを知ることができるだろうと思う。
 その事件の流れから、後半はいよいよ本題の少年にまつわる事件へと展開する。英知という名前の少年は、ろうではない。ただ、緘黙症であることから、手話というコミュニケーションと出会い、自分の考えを手話で表現できるようになる。この少年が、後半の主役となるのだ。
 さて、タイトルであるが、これはろう者には一目で何が言いたいかはすぐに分かる。実はこれは物語の中で設定された、子どもたちに人気があるアニメのタイトルに関わることになるのだが、龍に載るキャラクターの活躍が、希望をもたらすのだ。この英知くんも、それが好きで、それを頼っている。彼はろうではないが、このつながりが、ろう者ではない少年をも、手話というものが心開き、つながれていく道を生み出す。
 エピソードの連関といい、伏線といい、仕掛けられた名前や政治絡みの事件との接点といい、推理ドラマとしても読者を唸らせるものに覆われているストーリーだが、荒井とその周囲の人物との関係、荒井の自分をどこか閉じたような心の有様など、魅力たっぷりな本だとお薦めする。何森(いずもり)という孤高で愛想のない刑事がまた絶妙で、キャラクターの中でも人気が高い。そもそもこの刑事を主役としたシリーズが想定されていたそうだが、こちらは荒井となった。別に何森刑事の物語もできているというが、それも面白いだに違いない。
 後半はろう者の世界とは少し違うところに流れていくが、手話というものについての捉え方が、読者の考えを変えていくようなところがきっとあるだろうと思う。そして、章の切れ目をぶつっと印象的な言葉で閉じていくところに作者の腕があり、私はそこで感涙を留めることができなかった、ということが少なくとも二度あった。言葉の余韻というものを感じさせる、憎い演出と言うと失礼だろうか。
 聴者は、しょせん聞こえるわけで、いくら手話を学んでも、ろう者について理解してみたところで、ろう者になれるわけではない。ろう者に味方すると口では言っても、自分自身は聞こえる利点の中で生活している。ホームレス活動を助ける人が、自分自身は家に帰りあったかな布団に寝るというところで矛盾を覚えることがあるように、聴者である私は、そして多数の人は、ろう者のことを安易に分かったような言い方をすべきではない。だが、少しでも、近づくことはできると思いたい。そして、ろう者と向き合うのではなく、ろう者の側から世界を見るという視点を、少しでも、与えられたらと願っている。本書のような物語を経験することで、私は、しつこいが、少しでも、そのきっかけが得られるのではないかというふうに考えたい。
 手話やろう者に関心をもつ方、あるいはまた、心を閉ざしがちな人やその関係者には、きっと、心に何かをもたらしてくれる物語であるものと信じる。単行本から二年、文庫化されてやっと読んだということで、ずいぶん遅れた出会いとなったのだが、文庫だからこそ、多くの人に手に取ってほしいとさらに願う者である。




Takapan
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