本

『良心論』

ホンとの本

『良心論』
石川文康
名古屋大学出版会
\2800+
2001.10.

 実はこの「良心」という概念、非常に重要なものであり、私の根柢の近くにあることは間違いないと確信したので、それについての論考を探していた。だが、ない。もちろん皆無とは言わないが、書籍にしても、良心をまともに正面から取り上げたものが見当たらないのである。
 日本語のものが欲しかった。というのは、日本語で「良心」と訳してしまったとたん、それは西洋思想で探究されてきたそれとは、全く違うものになってしまうからである。西欧語では、概ねそれは「共に知られたもの」のような感覚からできた語である。「皆によく知られた」ということから、「常識」という意味に引っ張られていくことにもなる。だが日本語の「良心」には、そのようなイメージは全くない。
 こうした基本的なところから説き明かし、西洋思想における良心の概念を網羅するような本はないか、と探していたのである。
 本書はその期待に応えてくれた。さしあたり知りたいことはよく含まれている。先の「良心」という日本語の問題も、十分に時間をとって説明してくれている。学生にも伝わるような綴り方なので、たいへん丁寧である。
 但し、これでいいのかな、と思うところは、カントが中核に座っている、という点である。著者は、カント入門のような分かりやすい本をも著している。さて、良心論の中心に、カントがいるだろうか。引き出すのは悪くないが、かなりカントに重みを利かせている。それも私としては読みやすいが、私に気づかない側面をも期待していたのである。フランスはどうか。現代哲学はどうか。かろうじてヤスパースが出てくるが、扱いも堅実である。贅沢は言えないが、あと少し広い見地があれば、とも思った。しかし、西欧近代哲学へもたらされた「良心」あるいは「知」の検討は実にありがたく、大いに参考になった。
 カントのことを言ったが、もちろん石川文康氏は、カントの専門である。だから私には、言っていることはよく伝わってくる。それでいて、聖書についてもなかなか深いところから語ってくださるのは、同志社大学での学びに由来しているのだろうか。そのため「人々と共に知る」範疇での考察と、「神と共に知る」範疇での考察とが、きちんと描き分けられている。
 しかし、そればかりではない。「自己と共に知る」というレベルの考察も入る。それこそが、副題ともなっている「その哲学的試み」の具体的なあり方である。ソクラテスは、結局自分で納得しなければ、自分の人生を選ぶ事ができなかったのだ。人々と同じような知識で満足することができず、友人クリトンの勧めにも応じられず、毒杯を仰いだことになる。ではストア派はどうか。その後中世を辿るとまた面白かったかもしれないが、そこはどうしても「神と共に知る」の世界である。だから、デカルトの「コーギトー」が、哲学的試みのエポックとなる。そこにもまた「共に」の概念が見え隠れするわけだが、その後は、カントが控える。ただ統覚がどうとかいうレベルではなく、法廷概念を扱うところがさすが専門家である。カントの批判書に留まらない、広い見識が必要である。
 その次が、もうハイデガーとヤスパースにつながるから、哲学の一昔前の王道を進む流れで、「共に知る」歴史を概観することになる。
 見せ場は、次の「良心の三法則」であろう。ここに第一法則から第三法則までを掲げるが、ネタばらしかもしれないにしても、やはりご紹介はすべきだろうと思われる。「良心は、知らない、と言うことができない」「良心は、間違うことができない」「良心の作用は、時間の流れと共に強くなる」というものである。
 第一法則には、ペテロやユダが題材に挙げられる。知っているからこその良心であるという切り口は、理性の事実をがっちりと指摘するような力がある。第二法則はヨブを持ち出す。そこに疚しさというものが存在しないというものである。第三法則は、心配な事態のために予め警告する良心があると共に、良心が未来を志向しており、やがて後悔することをもたらすのは、未来性の概念からこそのものであることを想定するものである。
 最近、「後悔」についての心理学の本を読んでいる。それはこうした理解に役立った。しかし、良心はいつまでも心に引っかかることを忘れることができないから、いわば時効がない、というような言い方で、「後悔」として残存する構造を明らかにしようとしているように見える。
 いよいよ本書の最後では、「共同体としての自己」という次元で、あの「自己と共に知る」ことが発展的に解決していく勢いを示す。哲学の領域で、キリスト教的に「愛」や「希望」といったものに乗っからず、哲学が事態を予め指摘するような役割を、人類世界にもつことはできないものか、という未来を指し示すのである。これまた最近私は、「希望」についての本も見ていた。それはルポルタージュのようなところもあり、抽象的理論をかますものではなかったが、「良心」に浸る本書が、最後に「希望」にひっかかりをもつて突然登場させるあたりに、何か意味を見いだせるような気がして鳴らなかった。私にとっては、「良心」と「希望」が、どこかでつながるものだという予感がしているからである。
 いずれにしても「共に知る」という捉え方での「良心」は、いかにも西欧的ではあるものの、日本人が見落としがちなものを確実にもたらしてくれるものだ、と私は考えている。それと共に、また別の学的領域とのつながりや、別の哲学思想との関連を、また、いっそまた日本的なものにどつぷり浸かった「良心」の検討へと、拡がっていくべきではないか、という愉しみも与えられたように思う。いまはもう著者に尋ねることもできないが、果たして著者は、「希望」を得て旅立ったのであろうか。カントの理性宗教の枠組みを、超えることができたのだろうか。そんなところまで、ふと考えてしまうのだった。




Takapan
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