本

『良心の自由と子どもたち』

ホンとの本

『良心の自由と子どもたち』
西原博史
岩波新書993
\735
2006.2

 憲法学の若い教授の、力のこもった本であった。
 とくに学校現場における、子どもたちの思想と良心の自由について、様々な角度から検討されている。もちろんそれは、日の丸や君が代との問題を避けて通ることはできないし、その意図もあるだろう。だが、それだけのための議論であれば、実は虚しい面もある。思想や良心の自由に関しては、そうしたイデオロギー色だけで終わらない、日常の問題がいろいろとあるわけである。偶々それが大きな渦となって、体制的な思想一色に染めていく結果となっていくものである、とも捉えられるからである。
 緊急時の保護者への連絡を二度も軽視した、中学の社会科教師は、その失態を何らかの形で公表することは構わないと潔さを示したようでいて、その実、その公表で私の息子がいじめられるようなことになってはいけないことを配慮するから公表はよろしくない、と強く意見を言った。もちろん名前を出すわけでもないし、特定されるような書き方を望んだわけではないのに、である。私はこの意見に対して、そういう社会は怖いものです、と答えた。
 良心の自由というのは、その辺りにも関係している。残念ながら社会科教師と雖も、歴史から学んでいるようでも、それを現実に活かすこととは結びつかないようであった。
 この良心の自由というのは、宗教の自由と本来不可分であるということを、この本が明確に述べていた点は、参考になった。エホバの証人の生徒がその宗教的信条のために、武道の授業を否んだことに対して、代替授業を認めず退学とした高校に対して、裁判は敗訴の結論を出している。しかし、日曜日の授業参観に欠席した児童を欠席扱いとしたことに問題があるとした牧師に対しては、日曜日の実施には合理的理由があるとしている。そもそも通例日曜日が休日という制度を――たまたま――とっている日本は、キリスト教にとって有利な運びをしている点についても、著者は言及している。
 ところで、この本がいったい何を謂いたいのか、ということについては、読んでいけばほぼ自然に伝わってくる。それは「正しさ」を教えるということについてである。学校は、現在判明している精一杯の「正しい」学問について教える必要がある。しかし、何が正しいのか意見の相違のある事柄については、国家や公共団体が、これこそが「正しい」と教えることがよろしくない、というのである。この簡単な原理で、ずいぶんな線引きもできるはずである。
 総理大臣の発言もまた、これこそ「正しい」という自分の側における原則からなされていることが指摘され、学校現場における思想統制の問題が、やはりその「正しさ」の押しつけ、違う意見の者の言論の封殺という方向と重なって明らかにされていく。
 子どもたちの好き放題に考えさせてよい、というものではない。親が子どもたちの思想を管理している時期もある。この本では、その境界を13〜14歳あたりと一度記してあったが、次の問題は、子どもが子どもの人格としての思想をもつ段階の始まりについての議論であるかもしれない。それは、単純に肉体年齢では計れないのと同時に、法的にはそれも必要な面があるということから、話は難しくなるのではないだろうか。




Takapan
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