本

『流浪の教会』

ホンとの本

『流浪の教会』
佐藤彰
いのちのことば社
\900
2011.7.

 緊急出版である。いち早くこの声を伝えたいということから、ネット上の文も集められ、一つの本として届けられることになった。
 福島第一聖書バプテスト教会。この名前は、福島第一原発という、繰り返し報じられる問題の原発と重なって聞こえるはずである。だが、この教会は原発よりも歴史が古い。福島のこの地に置かれて半世紀余り。戦後のキリスト教ブームで盛り上がるものの、その後人が減少、一時は牧師がいないいわゆる無牧状態ともなるが、新たな出発の中でたしかに伝道の実を獲得しながら育っていく。
 そこへ、この大震災を経験する。
 地震だけでもダメージは小さくなかった。しかし、ここは原子力発電所から至近の距離にあった。避難区域に含まれるため、教会堂を出て行かなければならなくなった。そして、バスに揺られ避難所を渡り、東京の奥多摩へと導かれることとなる。被災の信徒もともに歩むその足取りは、出エジプトのさまよいにも似た、まさに信仰だけが便りの旅のようでもあった。
 その光景を、牧師夫人は昔から幾度となく夢に見ていたという。これがそのことだったのか、と今改めて神の準備した様を知る。また、牧師は震災直前の主日説教にて、東北の地震の懸念にも触れている。その他、いろいろ挙げれば、そのためだったのか、というような前触れを教会の様々な人が感じている様子が伝えられる。
 政府の対応を中心とした事故後の記録と並行して、佐藤牧師からのレポートがこの本の前半を形作る。そこには、事態の辛さも描かれるが、そこに神の手が確実にあることを実感させるものが含まれていることが、読めば分かる。モーセの旅の記録を見るかのようである。
 教会員の一人を亡くしたことを後で知るが、やがての受難、復活の主日の説教があり、それらも掲載されている。聖書が開かれながら、ただ聖書を釈義するのでなく、神の導きが今どのようにあるかを確かに伝えるメッセージとなっている。読む私にまでその臨場感が、つまり神の臨在が響くものがたしかにあった。
 東北はやはり九州から遠い。こういう声も正直聴かれる。何がどうなのか、やはり違うでしょうね、とあっさり語られることもある。それも嘘ではないだろう。だが、私はいつも息苦しい。胸が圧迫される感覚をずっと持ち続けている。祈ることしかできないが、祈ることができる、という思いもある。それは、自分にはまるで被害が及んでいないのは間違いないけれども、それでも、自分のことのように苦しいのである。きれいごとのように聞こえるかもしれないが、それは嘘ではない。あのイエスが、イエスからすれば見ず知らずの馬の骨でしかない、遠い遠い場所と時間の末に現れたこの私のために、十字架にかかっていたのだ。私が今同じ時代に苦しむ東北の人々のために、少しくらい苦しい思いを抱いても当然ではないだろうか。
 聖書の言葉が、まさに現実となってふりかかる。
 この本は、そのような、実に貴重な記録である。証しである。聖書の読み方が、変わってしかるべきである。聖書はたんなる思想でもないし、観念の産物でもない。神学論争の対象などでももちろんない。神は生きている。これだけの辛酸を舐めた教会の牧師、ならびに信徒の声がここにある。だのに、「なぜ神はこんなことを」というような訴えはどこにも見られない。エジプトを懐かしむ呟きは見られない。神は真実だという確信と共に、この教会は歩む。教会は建築物のことではない、という当たり前のことも、この証言がなければ、私たちは忘れるところだった。
 失礼な言い方だが、いのちのことば社の本でこの価格でこれだけの量と内容というのは、なかなかないかもしれないと思った。そのうえ、百円分は震災支援献金としてささげられるという。
 買って、読むだけの価値はきっとある。震災を、擬似的にであるにせよ、経験するような思いがする。どうぞお求め戴きたい。読むことで人生が変わるかもしれない、それほどの真実が、ここにある。




Takapan
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