本

『ルポ 誰が国語力を殺すのか』

ホンとの本

『ルポ 誰が国語力を殺すのか』
石井光太
文藝春秋
\1600+
2022.7.

 挑発的なタイトルだが、恐らく販売戦略だろう。内容は決して過激ではない。だが、読者の心を掴むために、スタートから衝撃的な例を挙げるあたりは、やはりセンセーショナルなものであるべしという、編集サイドのものではないかと推測する。「ごんぎつね」で母親の葬式の場で煮炊きをしていたのは、母親の遺体を煮ていたのだ、という、小学生の至って真面目な反応と、それにさまもありなんという教室の空気に唖然とする様子が例示されルのである。それは読解力の問題、つまり誤読という類いの話ではない、と著者は言う。むしろ想像力の欠落や、自分の考えを客観視する批判的思考の欠如ではないか、と考えるのである。
 それもあることは十分に認めたい。現場で子どもたちの言語活動に触れていくとき、想像力の問題は痛いほど感じる。だが私は、少し違う意見をもつ。それは体験の有無である。家の中で葬式を行い、来客に料理を振舞うという習慣についての経験が、全くない子どもたちにとって、葬式の場でわざわざ煮炊き料理をするということに、何か特別な意味があるのだと目を向けさせてしまうのではないか。通夜や葬儀のときに食事を供するという仕組みを知らないのが大きいと思うのだ。
 これに続いて、「一つだけ」の口癖がある貧しい少女の例も挙げられている。戦争文学である。現代の子が、このときの父親の反応について、とんでもない解釈をするということが書かれているのだが、これもまた、貧困のそのときにも健気に遠慮する心などといったリアリティが、今の子どもたちには皆無であるというところからアプローチしないと、単に想像力がないとか、人の心が分からないとかいうことではないような気がしてならない。実際ここでの例だと、父親に悪意があるから、など、それなりに心理を理解しようと想像力を働かせているのである。
 序章だけで力を入れてしまったが、この後、家庭環境の問題や、教育現場の問題、インターネットとの関係など、いろいろな側面から一つひとつ斬り込んでいき、関係者の苦労も伝えてくれるのは、貴重な現場の声であろうと思う。それぞれ長い時間をかけての取材であったことだろうと敬服する。また、現実にその場で苦しんでいる子どもたちと接触し、また教師の声を吸い上げるなど、ずいぶんと苦労されて資料を集めているに違いない。
 フリースクールでの実例は、置かれた環境により何らかの不幸な境遇を強いられた子どもたちのレポートで、読むだけで目頭が熱くなった。ゲームの世界から抜け出せない子どもたちの姿に対して、それは君の意志のせいではないのだ、と強くメッセージを送る著者と共に手を振りたいと思った。少年院の子どもたちのことも、よく取材したものだと驚く。
 こうした様々な場において、自分ではやるかたない子どもたちの叫びのようなものが、実は叫びとして現れてこないこと、つまりは言葉が発されないという、根本的なところに著者の主張が皆つながっていく。
 言葉は、ひとつには、他者とのコミュニケーションの手段である。だがそれは、自分自身とのコミュニケーションのためにも用いられる。人間は、言葉によってしか思考できない。人間の思考というものは、言葉によってなされる。自分を知るためにも、自分との対話が必要になるのであって、その言葉にしていく段階を欠いていると、自己認識さえ難しくなる場合があるだろうと考えられる。
 最後の方では、現場における改善案の実践の例がいくつか挙げられる。自然体験によって何かを生み出そうというもの、小説の熟読を授業で行う中学校もあった。ディベートができる中学校は、もうその時点で課題の回復は十分にできているようにも思われる。哲学的な思考を実践するところは、もうかなりの理想的な情況を実現できているのかもしれない。
 いよいよ最後に、ヘレン・ケラーの例で本を結ぶことになるのだが、なるほど言葉を失っていたというケースは、ヘレンに重なるものがあると言えるかもしれない。だが、やはりそうではない。ヘレンは、本当に音も光もなかったのだ。そこに言葉がないというのは、当然と言えば当然である。それだけに、サリヴァン先生が結果的に開いたその苦労は、よい方向に導かれたには違いないが、今の格差社会や生活環境の問題を含む、言葉を逸したかのような状態にある子どもたちの場合は、音も光もあるのである。働きかけてくるコミュニケーションというものも、たっぷり受けて知っている。だが、そこから抜け出せず、溢れる情報の中で、孤独になってしまっているのである。ヘレンは、言葉によって世界とのつながりを得た。しかし、孤独な子どもたちにおいては、どう世界とつながるのか、それは言葉では解決できないところに、糸口を見出すことが必要なのではないか。つまりは、サリヴァン先生が必要なのではないか。
 だから、本書の向くべき方角は、「誰が殺すのか」ではなくて、「誰が生かすのか」でなければならないのではないか。いや、著者はその方向を向いていると思う。その意味では、このタイトルは、きっと逆方向を指していると私は見た。そうしないと、著者の希望や熱意が、ふてくされてしまうのではないだろうか。そうした明るさへの道を示しても、本は読まれたはずだ、と私は信じたい。




Takapan
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