本

『走るジイサン』

ホンとの本

『走るジイサン』
池永陽
集英社文庫
\420
2003.1

 少し前の『でいごの花の下に』に惹かれて、同じ作者の作品を読みたくなった。手に取ったのは文庫であったが、元々1999年に集英社より刊行された小説である。
 頭の上に猿がいる。この奇抜な発想から、物語は始まる。ジイサンと呼ぶには失礼なような、まだ69歳の主人公。彼の視点から、物語は徹底して語られる。
 登場人物の絡みが実に味があっていいし、どこかメタファーめいた状況設定も、読み進むにつれて、謎が分かったりして心地よい。読者の心を十分察知したような書きっぷりで、これがデビュー作であるということさえ気づかないでしまいそうである。
 果たして、この猿が何者であるか、についても、一切が説明されていないところがいい。読者にとっての「猿」があるのかないのか、あるならばそれは何か、というところに自ら問いかけさせることができれば、それでいいのである。それくらい、このジイサンは等身大である。実際、老いてなくして、主人公の心情にはほとほと同化していくことを禁じ得ないのだ。
 解説の言葉を借りると、ここに描かれているのは要するに「ショボい」人間の姿なのであるが、そんな中でも、私は一つ、羨ましいと思えたことがある。主人公は確かにショボい働きしかなしえないし、精神的にも小市民的でどうという取り柄すら感じさせない存在である。しかし、他の誰にも言えないような悩みを、次々と打ち明けられるのである。これは、その人の魅力である。適切なアドバイスがもらえなくてもいい、この人になら話してみたくなる、そんな人物なのだろうと思う。私はその姿を、羨ましいと思った。
 人から必要とされる、この人なら認めてくれそうだ、という存在価値に、もしかすると、本人すら気づいていないのかもしれない。他人のことを幸福だと見つめる眼差しを、もしも自分に向けるとすれば、この人も一種の幸福に包まれていることは、否定できないであろう。
 頭上の猿は、後半には地味な存在になっているかのようだが、最後に物語を結ばせる働きをなす。もっと別の可能性の自分というものが、目覚めていると思うとき、もしかすると別の生き方もできるのではないか、という淡い期待が、実は厳しい超克の末にのみ与えられる、だが予想するよりずっと容易に、実現可能であることが、分かってくるものなのかもしれない。
 いやあ、猿がいるのでは、と眼球だけ見上げるようになってしまった。




Takapan
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