本

『ろう者の祈り』

ホンとの本

『ろう者の祈り』
中島隆
朝日新聞出版
\1200+
2017.12.

 朝日新聞に連載されていた記事に加筆してまとめた本。「心の声に気づいてほしい」という帯の言葉が響いてくる。
 記者は自ら手話検定を受け、準2級を取得しているという。そうしてろう者ときちんとコミュニケーションを取りながら、取材を重ねてきたのだろうと思われる。そして、ろう者が言いたくても言えないこと、伝えたいのに伝えられないことを、精一杯声にしていこうと努めている。
 ここに扱われたソースは、限られた人材とその人を通して知られる人々である。しかし本当にこんな冷たい仕打ちを受けているのだろうかと思われるほどの、酷い差別と扱いである。しかし、これは事実である。中にはクリスチャンの例もある。信仰で乗り越えたなどという話を伝えるのではないが、悲惨な体験をしていらっしゃる。
 手話やろう者について、理解は広まっているはずである。四半世紀前あたりから、比較的好印象で手話というものが見られるように変わってきた。確かにかつてはろう者が極端に酷い仕打ちを受けてきた歴史はある。人権もなかったという時代はそれほど昔のことではないが、それでも明るいものとして理解されてきたように見られている。決してもう「手真似」などとは呼ばれない。しかし、生活の現場は違う。とくに職業という場面においては、経済が関わるために、ろう者は厄介者でしかないという有様である。教育の現場でも、まさにいまはいくらかは改善されているかもしれないが、ほんの少し前は散々なものである。差別されてなお助ける者がいない。ろう者は歯を食いしばり耐えてきたが、耐えるしかなかった。
 もちろん、すべてのろう者がそうであるかどうかは知れない。しかし、概ねそうだと言われても否定できない。
 ろう者は、一見そうだとは分からない。見るから足の不自由な人、明らかに目の見えていない人は傍から見ても分かるし、そのできないところは助けたいという気持ちが働くかもしれず、実際同情であるかどうかは別として、理解して扱われることが多いであろう。しかし、聞こえないくらいはそれに比べると何が問題なのか分かってもらえず、自分でしろよという気持ちで突き放されるのが日常なのだ。しかも、いざ何か伝えようとすると変な声を出すと嫌われ、文章を書けば馬鹿じゃないかと蔑まれる。こうして個人的に能力がないのだと見られていじめられる。
 ろう者にとり、日本語が第二言語であるということを、著者は訴える。日本手話と日本語手話の違いすら、一般にはあまり知られていない。聴者の能力をフルに発揮して使いこなせる音声言語たる日本語で、すべての社会が形成されている世間である。ろう者は第二言語である日本語を学習しなければ、聴者が主体である社会で生きることはできない。しかし日本語のたとえば助詞ひとつとっても、習得は非常に難しい。手話の文法や伝達方法とそれは違うからだ。それで間違うことについて、馬鹿じゃないのかと扱われる。音声を欠いているということは、こうした日本語の理解と使用が、極端に困難になることが分かってもらえないのだ。
 そんなことからくる不条理な仕打ちを受けた人々の証言を、著者は丁寧に拾っていく。紹介してくれる。その解説には温かな眼差しがあり、力強い手がある。しかも、感情に走ることなく、聴者の心にも響くように、しかし曖昧にすることなく、ずばりと切り込んでいく。このあたりはさすが記者である。伝え方を知るプロの記者の手により、ろう者が言いたいこと、つまりろう者の祈りが、よく伝わってくると見てよいのではないかと思う。
 まあそんなこともあるだろう、などと聴者は軽く見るかもしれない。しかし読んで戴きたい。あなたも、恐らくは、ろう者をいじめていたということに気づくはずである。自分はそんなことはしていない、そんなことが言える人は、恐らく殆どいないと思う。それなりに理解しているつもりの私でも、加害者であることを痛感させられる、ろう者からの視点がここにある。決して、味方なのだなどとにこやかに言える立場ではないということがよく分かる。
 ここではおもに、仕事という側面でレポートされている。多数の聴者が、聴者に都合のよいシステムで構築した社会の中で、それのできない者をいかに排除し、冷たく蹴散らしているか、私たちに知らせてくれるものである。仕事をしなければ生活していけない現実がある。その仕事において、ろう者は如何に踏みにじられているか。また、外国ではどのように助けられているかという一部の紹介も含めて、互いに生かし合う生活の仕方、社会のシステムができるのではないか、という可能性の光を探すために、歩き始めようとする。
 本書一冊で、ずいぶん多くのことが提言され、誘いをかけている。そして最後に、ほんの僅かな数ではあるが、手話が紹介されている。そう、「こんにちは」や「ありがとう」だけでも、手話を使って出会ったら、ろう者はまずそれだけでひとつ安心できるのだ。それさえもしないということが、ろう者を冷たくあしらっていることになっているということに、聴者は気づかなければならない。自分は何もしていないから悪いことはしていない、という考え方の誤りに気づくだけでもいい。私たちは、自分の立てない立場に立ってものを見ることができないとき、自分が加害者であるということが分からない生き物なのだ。
 よい本だった。手話やろう者という問題に少しでも関心を寄せて下さった方には、誰にでも読んで戴きたい気持ちで一杯である。




Takapan
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