本

『ろうそくの炎がささやく言葉』

ホンとの本

『ろうそくの炎がささやく言葉』
管啓次郎・野崎歓編
勁草書房
\1890
2011.8.

 地味な表紙と、意味ありげなタイトル。直感したとおりに、東日本大震災を経て生まれた本だった。
 しかし、社会的なものではない。原発問題を批判するというような態度でもない。何かというと、これは詩である。いろいろな人の詩、または詩に匹敵するような散文あるいはごく短い物語と想い、そうしたものが溢れている花束である。
 最初の谷川俊太郎の詩が、この「ろうそくの炎」というモチーフを代弁している。論理では割り切れない、炎の描写と見るものの心が描かれている。それはてんでつながりのない、突拍子もない断片的なものでもあるようにも見える。でもいつしか、作者と一緒にそのか細い炎を見つめているような気持ちになってくる。心が伸び縮みしながら。
 作品の終わりに、作者の紹介が短くなされており、それからこの震災についての想いが短く吐露されている。それぞれの人の、それぞれの心や体験が語られる。まるでそのコメントそのものが一つの詩であるかのようにさえ思えてくることもある。
 作品は、必ずしも地震を連想させるものでもないし、被災者へのメッセージであるわけでもない。妙な励ましなどを、詩人が安易に口にするものでもない。そんなことは、世間の誰もが簡単にすることだ。詩人は、言葉を選ぶ。言葉を紡ぎ、言葉に命を吹き込む。では自己満足のような作品の集まりであるのか。いや、そうではない。私は詩人ではないからうまくは言えないのだが、高いところからの励ましや援助などといったものとは違うものがそこにある。たとえば、言葉とともに、被災者に寄り添っている感じだ。被災者の心のそばに、同じ視座で、同じ立場で、世界を感じている、あるいは感じようとしている、いやもしかすると、これから被災者が覚えるであろうような感覚を先取りして、ここに言葉で描いている、などと言えば、少しでも実態に近くなるだろうか。
 不思議な本である。何を言おうとしているか、分からない。だから何なのだ、と突っ込まれそうになると思う。あとがきに記されている。「人間のひとりひとりはあまりにも弱いので、私たちは感情をも言葉にして分かち合い、そこから力を汲み上げる工夫をしなくてはなりません。その作業に直接役に立つ本を作ろう。たとえば、しずかな夜にろうそくの炎を囲んで、肉声で読まれる言葉をみんなで体験するための本を。それがこの企画の出発点でした」と。そして、夜ろうそくの炎のもとで声に出して読んでほしいと告げる。そこに、「その声の親密さが小さな希望に変わる瞬間に、この本が立ち会えたなら」という期待が添えられている。
 ありきたりの挨拶や、慰めの言葉でもない。ぐさりと突き刺すような暴力的な言葉に変わりやすい、慰めっぽい言葉などではない。陰翳礼讃ではないが、仄暗い中でろうそくの炎が、頼りなくも確かにそこにある情景が私の心に浮かぶ。言葉が、心にそっと近づいてくる。なんだか理屈で説明はできないが、あたたかなもの、しみじみと力を注いでくれるものに、ここで出会うことができるかもしれない、そんな言葉の籠。言い尽くし得ない魅力を満載しながら、この言葉の本を今見返している。日常と違うものを見てしまった多くの人々を誘い入れるかのように、銀盤写真の花が表紙にあるほかは、何一つ絵もイラストもない、この言葉の本が、不思議に心を落ち着かせてくれる。
 詩人にできる大きな仕事が、こういうことであったのだ。言葉によって、新たな体験をもたらしてくれるのだ。苦難の中にいる人々、試練の中に置かされている人々に、小さな希望が確かにもたらされることを、切に祈りたい。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります