本

『論理的思考とは何か』

ホンとの本

『論理的思考とは何か』
渡邉雅子
岩波新書2036
\920+
2024.10.

 関心はあったが、発売すぐには手を出さず、評判を待っていた。どうやら評判がよいようだ。いろいろあって迷ったが、ついに購入。なんと面白いのだろう。
 小中学生に、作文を書かせる指導もしている。推薦入試などで必要なのだ。だが、そもそも文章を書くという経験がないに等しい子どもたちに、筋道の通る文章を綴れ、というのは、バットを握ったことのない人に、さあ打席に入って打て、と言うようなものだ。とりあえず書かせてみて、その生徒にまず必要な指摘を探すことから始めなければならない。
 では「作文」とは何だろう。本書によると、それは日本では「感想文」なのだという。それは、「書き手の体験」を書くのが主軸となり、序論としては「書く対象の背景」を示すのが普通である。そして結論には、「体験後の感想=体験から得られた成長と今後の心構え」を書くことになるのだという。
 そう言われてみれば、私も、そのように指導していた。ひとつ違うのは、入試の作文では、結論を最初に示すようにしていたことである。いわば双括型の文章をつくるのである。
 これは、極めて当たり前の姿であるようにも見える。だが、アメリカの大学で小論文を書いたとき、著者が屈辱的な仕打ちを受けたのであった。それが、本書へと結実したのであるから、失敗は成功のもとだとも言えるのだが、それは、著者があるコツを覚ってから、評価が格段によくなった経験に基づくものである。
 それは、アメリカで論ずるには、アメリカの「型」があることに気がついたからである。
 著者は2023年に、『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』という学術的な本を著している。論ずる文章の「型」は、日本とアメリカだけではなく、大きく考えて四つに分類できるというのだ。それらは国により決定され限定される、というわけではないが、理解しやすいように、四つの国の名前を掲げて、著者は紹介する。
 その内容はぜひ本書で確認して戴きたいと思うが、アメリカ型の「エッセイ」、フランス型の「ディセルタシオン」、イラン型の「エンシャー」、そして日本型の「感想文」である、としている。
 このように、オッカムの剃刀ではないが、極めて限定された領域と割り切り方で、思考の型を四つにしてしまうというのは、考えてみれば乱暴なのではあるが、読む側としては、実にスッキリして、分かりやすい。
 先に挙げたアメリカのものは、まず「主張」をし、本論では「主張を支持する三つの根拠(事実)」を記し、結論には「主張を別の言葉で繰り返す」というパターンであるという。私が指導している作文は、この中に「体験」が入るようなものであろうか。その「体験」は、しばしば作文課題の「条件」に定められているものである。
 このアメリカの本論における「三つの根拠」というのが、目に留った。さすがに著者は指摘していないが、これは「スリーポイント説教」とよく称され、キリスト教会で聖書を説く礼拝説教の、一時流行ったパターンなのである。三つの点を指摘することで、説教を成立させるということで、非常に論理的に聞こえるのが特徴であった。だが、当然のことながら、恣意的に三つをどうしても挙げることが、本当に聖書から聞くということなのかどうか、疑問が湧き起こるようになり、いまではすっかり衰退してしまった。但し、これにすっかりハマってしまい、いまなお一部の牧師は、「三つあります」という形でしか話せない人もいる。
 アメリカの説教の本にこのことが取り上げられることがあったのを見たと思っていたが、それは偶々ではなく、そもそもアメリカで何かを論ずるときには、このように「三つ」というスタイルが当たり前のものとしてあったということを、本書から私は確認した次第である。
 しかし礼拝説教ということを考えると、私には、イランに代表される「エンシャー」という型式の説明を見て、思わず膝を叩くこととなった。イランとなると、イスラム文化の真っ只中であるが、宗教の領域に限定されず、宗教の話をするようなスタイルが、当然の型式となっているようなのである。著者によれば、ここにも「主題を説明する三段落」が中心とされるというから、どうにも「3」という数には、人間が思考するときに神秘的に関わるものが潜んでいるのかもしれない。この型では結論として、「全体をまとめ、ことわざ・詩の一節・神への感謝のいずれかで結ぶ」ものだ、と本書は指摘しているが、なるほど、これは教会での説教の最後を飾るものであるに違いない。
 だが、それが説教タイプだというのには、この構造の説明に留まらないところに大きな要因がある。それは、前提となる事柄が、もうすでに決定されている、という点である。この辺り、本書の醍醐味を紹介してしまうことになるので、あまり細かくは言わないつもりだが、このイランの型では、アラーの神の言葉は、誰もが認める大前提なのであって、その前提から始まり、その前提で終わる、というほどのものなのである。何を論ずるにしても、この原則が崩れることはないのだという。キリスト教会の説教も、聖書を基盤にしている点で、全く同じである。
 アメリカのエッセイでは、個人主観の前提が、他人を説得するべく立ち上がるため、その前提は個人が決めるようなところがある。フランスでは、フランス革命の精神が貫かれており、弁証法的に、結論すらまたいずれ乗り越えられなければならない、という理法を前提としている。いわば暫定的な結論を出す、哲学的な営みのように見える。そして日本では、読者の共感を得ようとすることが前提にあり、心情的に同じ空気の中に溶けこもうとする営みがそこに前提されているという。自己主張をするというよりも、自分が承認されることを求めての作文活動となるのである。
 こうした四つの思考法については、アメリカは経済領域、フランスは政治領域、イランは法技術領域、日本は社会領域、というカテゴリーの設定もあり、著者はその背景などをこの一冊でたっぷりと聞かせてくれる。学術的な本ではないかもしれないが、恐らく著者の研究内容を、高校生にも理解しやすいように、分かりやすく説明した、というものであるのだろう。
 では、これらの型は典型的にそれぞれの国や文化で決まっているのか。それでよいのか。著者は、そのようには考えていない。私たちは通常、ごく自然に、これらを場面場面で使い分けている。この典型的な四つの思考法の型が、過去に形成された文化の相違に基づく型だとすると、いまやインターネットを通じて世界は様々な人の考えが交わっている。特定の形だけで他の人々と付き合うことはできない。これからは「多様性」が知的活動の場となるであろう。ただ、こうした思考の違いがあることを弁えておくことが肝要だ、と主張する。
 つまり、本書を提供する動機は、「論理」はひとつではない、ということを知らせることにあった。「論理的」とは何か、を反省するのである。おまえの言うことは論理的ではない、という争いをなくすためだ。著者は学生のときにアメリカで、そう言われたのだ。だが、文化の異なる場面では、別の「論理」というものがある。このことを既知のものとしたかったのだ。様々な論理があることを弁える。それは、無用な争いをなくすために有用であろう。延いては、世界の平和のために、必要な前提となるのではないだろうか。
 ひとつ、私が気になったことを告げて結ぶことにする。著者の実に切れのいい説明に感動しつつ最後まで読むことができたのだが、さて、本書そのものは、あの型のうち、どの型に属するのであろうか。決して心情的接近を求めているようには思えないのであるが、一体どれなのか、興味をもった。あるいはまた、指摘した対象には属さない、カントにおける理性批判のようなスタンスに立っているのだろうか。どなたか教えてくだされば幸いである。




Takapan
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