『ローマ人への手紙 現代へのメッセージ』
大木英夫
教文館
\3500+
1998.10.
大木英夫氏とくると、私はどうしても終末論への警告が響いてくる。だがそれは比較的初期の一時期に著しいようで、円熟期には現代社会への眼差しを、本来の組織神学の俎の上で捌くような鋭さを以て、こうして形にしているように見受けられる。
本書の存在を知ったのは2024年、偶然にであった。それまで私のマークをすり抜けていた、というよりは、私が愚かにも気づいていなかった。これはなかなかの力作である。
その「あとがき」から分かるのだが、これは数年間にわたる説教を集めたものである。しかし、連続講解説教ではない。月単位で続けられた特集のようである。しかも、膨大な原稿のすべてをここに掲載したものではなく、エッセンスの詰まったものである。一部割愛されたものもあったという。それだけに無駄がなく、きびきびと展開してゆく。ひとつの説教はさほど長くないため、1日にほぼひとつずつ読んでいくことが、さして負担にはならない。
ローマ書は、一章分が予め扉のように掲げられ、その箇所からの説教が次々と並ぶ。クリスマスやイースターなどの時季に語られたものは、それなりの味付けがなされているが、概ね聖書にただ従うようにして語られている。だが時のニュースや話題も適宜取り入れられており、非常に深刻な事態に遭遇した場面もある。あるいはまた、社会的事件や皇室の話題もそこには含まれるが、かなり手厳しい見解もあれば、思いのほか寛容に受け取っている場合もある。但しそれは、聖書解釈に関わることであって、決して単独に批判の目を向けるというような形ではなされない。あくまでも、聖書からのメッセージを取り扱うものである。そして、「組織神学者の説教」である、と自ら「あとがき」で触れているように、現代の情況、つまりは「いま、ここ」で聖書を捉える眼差しを大切にしていると言えるであろう。
そのうち一つの説教に、ここでは注目してみよう。ローマ書7章の、あの「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」という辺りからの説教である。「感謝すべきかな」と題されたその説教は、7章の後半を扱う。大江健三郎氏に、著者が理事長として務めていた聖学院大学の創立記念日に語ってもらった。そこでgraceという言葉が食前の祈りを表すことへの気づきを教えられたのだという。この言葉は「神の恩寵」を表すのだが、どうして「食前の感謝」の意味になるのか。
ここでパウロがそれを告げるが、そこには神と人間との関係への問いがある。パウロのかの言葉は、「わたし」という一人称単数が、実のところ苦悩が人間を孤独にすることを示している。人間がどうしようもない存在だということを思い知らされる中で、「神がよくそのような人間に絶望されない」か、そこが肝腎だ、というのである。そこには、神が人間と交わした「約束」がある。このとき心を占めるのは、「われわれ」という呼称ではない。「わたし」という単独者である。
こうして、神の恩寵は、わたしにとっての「ありがたさ」となる。翻って、人類史を、人類が神のパートナーとなるための教育として位置づけることに着目すると、「過去を憶えることのできない者は、それをくり返すことへと(英語ならば)condemn(注:非難・責め・有罪)されている」という、アウシュヴィッツの強制収容所の展示室にあった言葉が迫ってくる。だが、過去を痛感する人間が自分に絶望することによって、そこになおかつ絶望されない神というものを知る。
私たちは過去の悲惨について、そしてまた自分が犯した罪に対しても、「心を亡くす」という形で「忘れる」ことをしてしまっていないか。私たちはそこに、憶えていることの必要性を知る。これはthinkを含んでいる。このthinkがthankになる。ドイツ語ならば、dendenがdankenになる。
教会の聖餐は、「神のなされたことを深く思う心をもつ交わり」としての教会を特徴づける。そのとき、「罪深さを悟りつつ、深い心をもって、神の恩寵に人間は感謝をいだく」のである。個人のこの痛切なところからくる信仰が、教会を形成してゆくことになるのである。
今のは、私のアレンジである。大木氏がこのように言ったというわけではない。私がいまここから思うことにより、連ねてみたものである。だが、本書のもつ雰囲気は、いくらかお伝えすることができたのではないか、と思う。540頁を超えるこの本は、版もA5と小さくなく、ずっしりと重い。この重みの中に、現在と重なる聖書の恵みが詰められている。私たちの気づくべきことが、ここから沢山与えられることだろうと信じている。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド