本

『リスクを考える』

ホンとの本

『リスクを考える』
吉川肇子
ちくま新書1661
\860+
2022.6.

 リスク管理の概念に欠ける組織は、ひじょうに拙い。しかしまた、個人としても、リスクの意識をもっておかなければ、自身の生命や財産を守ることができない。これは現代に特有なことではなく、人間が生活していく限り、いつの世でもあったはずのことである。もちろん、古代人のリスク管理を探究しようというのは、研究家がすればよいことであって、現代に生きる私たちにとり、リスクをどう捉え、また、その管理を組織にどう求めればよいだろうか、という点に視線を集めることが肝要である。
 サブタイトルが「「専門家まかせ」からの脱却」となっているが、本書は新書という性格上、このただひとつのことだけを読者に伝えたいが故に、書かれたものだ、としてよいだろう。専門家の意見にだけ頼り、自分では考えようともしないこと、それがいけないのである。
 リスクとは、「望ましくないことが起こる可能性」であると、本書では定義して扱うことにしているという。それに関しては、いくつかの概念が取り巻いている。望ましくないことについては「ハザード」、またリスクが顕在化したものについては「クライシス」(危機)という言い方を用いることがあるという。
 このリスクについて相当な研究結果をもち、権威をもつとされる、専門家たちがいる。だが、専門家が間違わないという保証はどこにもない。人々は、専門家の言いなりになるのではなく、それらを検討し、また互いにコミュニケーションをとり、リスク情報をシェアしていく必要がある。本書の結論としては、こうした辺りで確かだろうと思う。
 それを明らかにするために、じわじわと外堀を埋めていくような説明を、以下ですることになる。そのときに、重視するのが、リスク・コミュニケーションという考え方である。それは「個人、集団、機関における情報や意見の交換の相互作用的過程である」と簡単に定義されているという。意見交換が、双方的に行われるという前提があるのである。
 コロナ禍を経験しての本書である。マスクの不足はまだしも、ほぼ無意味に、トイレットペーパーが店頭から消えるという事態を私たちは経験した。各自がリスクを感じたのは事実だが、このときに、買い占めは止めましょう、というアナウンスをしたことが、むしろこの事態を招いた、と著者は指摘する。その事態を知らない人にも、不足していることをわざわざ知らしめたために、全員がさらに動いたというのである。
 こうしたリスクを、相手に説得するように告げるというのが、コロナ禍での専門家の指摘であったのかもしれない。が、現れた情報が、必要で客観的な情報であるとは限らない。むしろ、肝腎の点についてだけは隠されている、というようなことがありうる。いや、普通にそれは起こっている。依然として情報というものは、大本営発表のようなものなのである。逆に言えば、うまく情報を出すことにより、社会の好意を集めるようなことも可能になる。情報の力は、絶大である。
 信頼できる情報か。私たちは、それを見抜く力を要求される時代となった。情報量からすれば、かつての時代とは全く違うのである。しかし、情報が錯綜する中で、どう見抜けばよいのだろう。著者は、何らかの形で集団で決める必要があるだろうとする。但し、その問題点も認知しておくべきである。ここで、一般的な人間集団という形で普遍化しようとすると、よろしくないように私は思う。日本社会には、日本社会らしい社会意思の決定情況がある。空気を読むとか忖度とか、その手の言葉はいくらでも知られている。日本を覆うそうした何者かについては、芥川龍之介でも手塚治虫でも、多くの賢者が察知している。そこで、理想的には、著者の言うように、集団的意思決定というものが求められるのだろうが、そのような合意形成が、本当に可能なのだろうか。私は些か懐疑的である。
 確かに、一般人は知識がないとか、専門家でないと分からないとか、そんな前提からリスク対処を決めてしまうのは、それこそ危険であろう。本書はそれを徹底的に叩くために著されている。専門家が万能なのではない。様々な失敗例がある。だから、専門家が思想を独占するということはあってはならない、としている。一般の人々も、「文句を言う」ことが大切なのだ、というのは、尤もなことだと思う。
 だが、一般人の集団が、専門家の指摘を拒んで、感情やムードで、酷いときには無理解と無知によって、一気に多数派を牛耳り、時代を傾けて暴走するというリスクを、どれほど深刻に著者が考えているか、それは検討されていないような気がする。「群衆心理」は恐ろしい。そしてそれが指摘されてからも1世紀を経ている。炎上社会と、それにより口に出せなくなるような意見が抑えられてしまう現象は、日本においては、日常的である。そのような性質を持っているとなると、そもそもコミュニケーション自体が成立しない情況があるのだ。専門家の前に口をつぐむ素人というのが危険であるというのなら、感情的に大声になった群衆心理のもたらす勢いというものの前には、もう知識ある専門家さえ、ものが言えなくなってしまうという危険があるのではないだろうか。
 人々の良心というものを、素朴に信用しているだけなら、著者の言うことはもちろんその通りなのだろう。だが、わざわざそのリスクの研究のために、社会が必要あって育んできた専門家の「言いなり」になることを懸念して、ついにはその専門家を無視して、人々の感情のなすがままに任せるのがよい、というような形につながる道を拓くことが、賢明なのだろうか。私の頭の中には、愛と平和を説いたイエス・キリストに向けて、「十字架につけろ」と連呼していた群衆の姿が、どうしても浮かんでくるのである。
 本書のように、リスクを考えよう、という提言は、社会心理学の「専門家」がここで発している。となれば、この「専門家」の言いなりになることも、ここでは提言されているもの、と理解するほかはない。それとも、この「専門家」ご自身だけは例外であって、本書の言うことに従いなさい、と仰るつもりなのだろうか。私は、多くの人の気持ちを敬わない気持ちはないけれども、大衆が主導権をとってもたらすクライシスのほうが、専門家のもたらすそれよりも小さいことはない、と理解する。「専門家まかせ」にひとつの警告を得ることには意味があるが、それは、専門家を尊重する心構えを減らすことであってはならない、と私は考えるのである。




Takapan
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